『剣遊記]』 第三章 渡る世間は敵ばかり。 (3) もちろん約束の時間をとっくに過ぎているというのに、ふたりからの釈明の言葉など、ひとつもなし。
とにかくふたりとも無言。
「遅いっちゃぞ! 可奈さん!」
業を煮やした孝治は、つい声を荒げたほど。誰んためにおれがこげな苦労ばしようっち思うとるんけ――と言いたいのだが、やはり可奈にとっては知ったことではなし(自分がいない間の事情を知らないのだから当然かも)。真に平然としたものだった。
「ちっとべえ、ええだにぃ☠」
可奈のこのひと言で、簡単にケリが着いた感じ。おまけに孝治の立腹する理由は、こればかりではなかった。それは可奈の右にいる美香が、これまた驚いた姿をしているからだ。
「なしてカモシカに変身したまんまなんねぇ! 人ん格好ばさせんしゃいよ!」
初めて美香が未来亭に来店したときの姿――ニホンカモシカのままなのだ。美香はカモシカ姿になって、旅に同伴するつもりなのだろうか。
いや、実際にそのつもりのようだった。それは彼女の首に、唐草模様の風呂敷包みがきちんとくくられていたからだ。初めて未来亭に来訪したときと同様に。
「……あたしもこれさ言い聞かせたんずらぁ……でもだにぃ……☁」
遅刻に関しては居直った可奈であった。ところが美香についてとなると、本当に申し訳なさそうな感じで、百八十度方向転換したような言い訳を始めてくれた。
「美香っだらぁ……遠出の旅んときは、なからこの格好で通してるんだにぃ☁ こればっかりはぼこ(長野弁で『子供』)さんときからあんねんまく(長野弁で『あんなに』)言うても、だいじょう言うて聞かねえずらぁ☂」
「孝治、こんヤギはきのう店長の部屋におった、新人の女ん子け?」
このとき、珍しくも黙って成り行きを静観していると思っていた荒生田が、孝治の左耳に、こそっと話しかけてきた。
「ヤギやのうてニホンカモシカなんですよ☻ まあ、おんなじウシ科の動物なんやけど(苦笑)☻」
などと一応前置きしつつ、孝治は先輩に応えた。
「っちゅうわけで、そうなんです♣ こんカモシカが美香ちゃんこと三萩野美香さんなんですよ⚐ 見てんとおりのライカンスロープなんですけど、先輩かて人でおるときに会{お}うとうのに、珍しくも名前も訊かんで行ってしまうんやけねぇ……酒ば飲みに☠」
説明ゼリフの末尾に入れた嫌味など、もちろん荒生田の耳には入っていなかった。それよりもむしろ、荒生田の目当ては、別の一面にあった。
「ライカンスロープの女ん子で、しかも現在動物に変身中……っちゅうことは、彼女は今、すっぽんぽんの丸裸っちゅうことやなかね! よかよかぁ♡ こんまんまいっしょに旅に出るっちゃよぉ♡♡」
「うわっち……あ、頭痛かぁ〜〜☠」
けっきょくそちらの方向へ話を持っていく荒生田に、孝治は本気で頭痛を感じた。それからよせばいいのに、荒生田が美香のうしろへ、なぜかグルリと回っていた。
美香はこのときまだ、荒生田には無反応の態度でいた。そこへ荒生田が、よけいなるひと言。
「ゆおーーっし! カモシカとはいえパンティーも穿いちょらん、生の可愛い無防備なお尻なんよねぇ♡」
それから孝治にセクハラしたときと同様。その無防備なカモシカの臀部{でんぶ}――美香のお尻を、右手でペタン!
とたんにボゴッと、美香の後ろ脚が跳ね上がり、荒生田の急所を両足で痛撃!
「ぎゅばがぼげぇーーっ!」
要するに美香のうしろ蹴りを、男として一番大事な個所に喰らったわけ。
荒生田の顔面が、瞬く間に赤から青へと変色。
「ぎゃぴーーっ!」
その場でピョンピョンうさぎ跳びの顛末となった。
「言わんこっちゃなか☠ 因果応報っちゃねぇ♡」
初めからなにも言ってはいないのだが、孝治は『ざまあみい♥』の本音をあらわにしてつぶやいてやった。 (C)2014 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |