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『剣遊記]』

第三章 渡る世間は敵ばかり。

     (24)

 一見、孝治と律子の間にはなにも起こっていないようなので、ひとまず安心をしたのだろう。しかしこの成り行きでは、愛妻が小屋にまだ帰っていないのを知って、再びこの場へと戻ってくるに違いない。

 

「ごめんばってん、わたし、先に戻るけぇ!」

 

 尋常ではない夫(秀正)の狼狽ぶりを間近で見てしまったためか(どこに目?――と言ってはいけない)。薔薇の花姿でいる律子までが、見事に狼狽している模様でいた。すぐに葉っぱやつるや茎がグルグルと蠢{うごめ}き、樹木の外観がひとつに重なって、緑から人の肌へと変色。薔薇から人に還元される状態も変身時と同じで、瞬く間の出来事であった。

 

「じゃあねぇ〜〜♡ くれぐれもヒデにはこんこつ言わんといてやぁ〜〜♡」

 

 これも登場したときと同じ。緑色のビキニスタイルで、律子が林の方向へと駆け出した。恐らくそこに、衣服を置いてあるのだろう。

 

「ほんなこつ元気っちゃねぇ✌ 律子ちゃん✈」

 

「昔っから、あげな風やったちゃねぇ☆」

 

 走り去る律子の背中を見つめつつ、友美と孝治はしみじみとつぶやいた。それも今では、孝治も友美も、お風呂のように肩まで水に浸かった格好のまま。それからだんだんと孝治は、しみじみとは真逆。憮然の思いに変わってつぶやき直した。

 

「……やっぱ、律子ちゃん、おればからかっちょうとしか思えんっちゃねぇ……☁」

 

『まあ、よかやない♡ こげな風に大らかな時代なんやけぇ♡』

 

 さらに変身以上に大問題である全裸でこの世を徘徊している涼子が、走り去る律子の背中に描かれている薔薇の入れ墨を眺めながら、少々複雑気味な笑顔でささやいた。

 

 現在の律子の悲劇の元凶。それがその入れ墨であるにも関わらず、完全に自分の物として受け入れている彼女の逞{たくま}しさ。それどころか逆になんだか、今の状況がとても楽しく感じられて仕方がない――といった明るい面持ち。そのためなのか。涼子は次のセリフも付け加えてくれた。

 

『さっき、あたしが言おうっちして言わんかったこつ、見事律子ちゃんが言うてくれたっちゃねぇ♦ 変身しちゃったことの哀しみっちゅうか……楽しみみたいなんをね♥』

 

「……大らかな時代……変身しちゃったことの哀しみ……ってかぁ……涼子が言うたこと、期待しちょった割にはつまらんかったけど、だいたい当たっちょうかもしれんちゃねぇ……♥」

 

 なんとはなしの気持ちで、孝治は涼子のセリフを反復した。

 

『悪かったっちゃねぇ☠ 期待外れでくさぁ☠』

 

 涼子がほっぺたをプッとふくらませた。そんなところでだった。

 

「そうっちゃぞ☛ こげな大らかな時代は、まさに楽しゅう生きな損やけな☆」

 

「うわっち?」

 

 孝治に返事を戻した人物は、自分もちゃっかりと鎧と服を脱ぎ、小川での水浴を思いっきりに満喫していた。

 

 孝治も友美も涼子さえも気づかぬ間。それもとっくの昔に。

 

 その黒いサングラス😎を水浴中でもかけている人物こそ、もはや改めて紹介を行なうまでもないだろう。

 

「うわっち! 荒生田先輩、いつん間にぃーーっ!」

 

「きゃあーーっ!」

 

『ほんなこつ、凄か人ぉ☆』

 

 孝治と友美と涼子のこの日の記憶は、なぜかこの時点において、プツンと中断した。


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