『剣遊記]』 第三章 渡る世間は敵ばかり。 (15) 「ただいまぁ……☻」
愛想の薄い声音はともかくだった。黒衣の魔術師――可奈は、長い黒髪に水滴をしたたらせていた。その姿が真にもって魅力的。また、相変わらずニホンカモシカ姿でいる美香も、全身の獣毛から、水をぽたぽたと垂らしていた。
つまり美香は、水に入るときも、カモシカに変身したままでいたのだ。
「美香、いいからかん(長野弁で『いい加減』)体が濡れてるさけぇ、かんじる(長野弁で『寒くなる』)前に外で体さ振るってくるずらぁ☹」
美香が早速可奈から言われ、正直に小屋の外へ出た。それから全身の筋肉をブルブルブルッと思いっきり振るわせ、厚い毛皮に沁み込んでいる水分を物の見事に弾き飛ばしている光景が、外の様子からも感じられた。
この間可奈のほうは、長い髪をタオルで拭きながら、なんのつもりか孝治に振り向いた。
「水はまんだ冷たいのがかんじるんだども、汗が流れてけっこう気持ちええずらよ♥ 次はおんしが入ったらどうずら♪」
「おれがけ?」
このとき少々、心臓がドキンと高鳴った孝治であった。ところがその返事を、可奈に戻す直前だった。
「ゆおーーっし! よかっちゃぞ♡ 入れ♡ 入れ♡」
いきなり荒生田が、いつものごとくしゃしゃり出た。
「今回の旅は温泉がいっちょもなかっちゃけねぇ♡ やきーここは、ふつうの川で我慢ばするしかなかっちゃやろ♡」
「先輩っ! もう酔うとったんが、元に戻ったとですかぁ☠」
「今醒めたと☀」
これは孝治の問いに対する、荒生田本人の申告。もちろん嘘に決まっている。実際に荒生田は、聞きしに勝る酒豪。一升瓶一本程度のお酒ぐらいで簡単に酔い潰れなど、絶対にしないはず。現実に濁酒をすでに三本も空けているのに、荒生田は完全にシラフの感じ。その顔で孝治に迫っていた。
「まあ、とにかく孝治も水浴びばしんしゃい♡ 出歯亀ばたくらむ悪い輩からの守りは、先輩たるこんオレが引き受けちゃるけ♡」
「出歯亀ばたくらんじょるんはあんたでしょうが!」
孝治は思いっきりの抵抗で、叫んでわめきまくった。それでも荒生田は、ちっとも動じようとはしなかった。
「さあさあ、水浴びっちゃ水浴びっ♡」
「うわっちぃーーっ!」
もはや嫌がる孝治の右手を無理矢理引いて、荒生田は勝手に小川へ向かおうとする始末。
「まあ、にぎやかなあいつたちずらねぇ♣♧」
可奈はこの騒ぎを、冷やかに眺めているだけ。しかし友美はとてもではないが、気が気ではいられない様子でいた。
「駄目っちゃ! あげんなったらもう、荒生田先輩……もう誰にも止められんとばい!」
だが、もはやこれまでの状態でいる孝治は、荒生田のように学習能力皆無というわけではなかった。
「こげんなったら、奥の手! 先輩、ごめんちゃ!」
「うげっ!」
一瞬の隙を突いて、孝治は荒生田の右脇腹(肝臓の位置)に、きつい一発をボクッとお見舞い。右拳が見事、急所へと決まったようだ。荒生田が三白眼を白目に変えて、無様にもあえなく卒倒した。 (C)2014 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |