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『剣遊記閑話休題編U』

第二章 黒川温泉、陰謀の桃源郷。

     (7)

 静かな山道が彩乃の求める性であるなら、これもヴァンパイアの持ちうる本能であろう。

 

「えっ?」

 

 それこそなんの、前触れもなし。いきなり訳もなく危険を感じ取った彩乃は、慌ててその場で腰をかがめた。

 

「きゃあ!」

 

 彩乃の頭上をビュッと飛び越え、道の先にカランと転がり落ちた物。それは一本の太くて短めになっている、木の杭だった。しかも御丁寧に、両方の先端が鋭く尖らせてあった。

 

「だ、だいね! こがん危なかモンば投げたんはぁ!」

 

 杭が飛んできたと思われる方向に、彩乃は大きな声でわめき立てた。

 

 無論、返事などはなかった。

 

「ぞーたんのごと絶対許さんけねぇ! 今に見とくばってん、こがんこついっちょけん(長崎弁で『ほっとけん』)のやけぇ!」

 

 けっきょく憤慨が収まらないまま、彩乃は道に転がっている木の杭を、左手でひょいと拾い上げた。それをどこか遠くに投げ捨てようと思って。

 

そこへもはや定番。恒例の事態が現われた。

 

「そぎゃんおめかんだかて、充分に危なかばってんねぇ☠ なんちゅうたかて、ヴァンパイアやとそれば心臓に刺さったら、ほんなこつ、つこける(熊本弁で『転ぶ』)にゃあことになるったいねぇ☠」

 

 道の脇で茂っている藪の中から、例の祐二がゴソゴソと顔を現わした。

 

 いったい、いつのころから隠れて彩乃を追跡していたのか。それはわからないが、状況から見て、尾行は明らかと思える節があった。

 

 彩乃はキッパリと言ってやった。

 

「わがこれば投げたんやろ! わたしばきゃーまぐれさせる気ね!♨」

 

 それからつかんでいる太めの木の杭を、彩乃は左手の握力だけで、グシャッと簡単に握り潰してやった。さらに瞳を漆黒から金色へと変え、祐二をギラリとにらみつけてもみた。

 

だけどもこの双子の弟は、これでもまるで平然としたものだった。

 

「もっともばってん、心臓に杭ば刺さって死ぬるんは、なんもヴァンパイアだけの特許やなかっち思うとばってんねぇ♦ ふつうの人間やろうと亜人間{デミ・ヒューマン}やろうと、大抵のモンは御陀仏っち思うばい♠♐」

 

「なんば言いよっとね! わが投げたくせしてくさぁ!」

 

 怒り心頭のあまり、彩乃の長い黒髪までが、物の見事に逆立って天を突いた。

 

 そんな彩乃に、祐二もようやく恐れの気持ちを抱いたようだ。ここで初めて、無意識であろうが、一歩二歩と引き下がっていた。

 

「ま、まあ……待ちんしゃい……と、とにかくこぎゃんあくしゃうつ目にこれ以上遭いとうないなら、今すぐでもこん町から出て行きや♐ 悪かこつ言わんけぇ……✍」

 

 もちろん彩乃は、思いっきりに噛みついてやった。ちなみにこれは文章上の表現であって、本当に牙で噛みついたわけではありません。

 

「ええっ! 出てってやるばい! でもそん前に、わがいじきたなか血ば、致死量寸前までぼっくりきばるほど吸うたげるけね!」

 

「おお、こわ……ほんなこつ腹かいとるったいねぇ☠」

 

 この彩乃のド迫力を前に、祐二がやせ我慢混じりの感じで苦笑らしい表情を浮かべた。両足をわずかだが、カタカタと震わせながらで。ついでに肩もすくめていた。

 

「どかんね!」

 

 そんな出歯亀男――祐二を脇へと押しやり、彩乃は山道を回れ右。大股で今来た道をノッシノッシと引き返した。


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