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『剣遊記閑話休題編U』

第二章 黒川温泉、陰謀の桃源郷。

     (6)

 水晶亭を出た彩乃は、黒川の町を気ままに散策した。

 

 外出する前、ついでに執務室を覗いてみたのだが、あいにく祐一は不在中。やはり大店の後継者として、それなりに多忙なのだろう。

 

「そがん言うたら、うちの店長かて若いとばってん、ムチャクチャ忙しゅうしちょうばいねぇ……これって、男もんの甲斐性やろっか?」

 

 彩乃の雇用主である黒崎氏は、彼女も幼少のころよりよく観察(?)をしていたのだが、とにかく公私ともに多忙の塊のような男である。

 

 ここで『幼少のころ』と記したが、西洋人の血を引く彩乃は幼いとき、母親に付き従って北九州市まで流れて以来、未来亭で奉公するようになっていた。

 

 初めは母が。彼女の死後は、娘が給仕係を引き継いだ。

 

 つまり母娘二代に渡る奉職というわけ。

 

 長崎市出身の、色白で美しい肌が印象的な母であった。

 

 もちろん娘も、その血を充分以上に受け継いだ。

 

 だが、父親に関する記憶はなかった。

 

 国際貿易港である長崎市に駐在武官として赴任していた東ヨーロッパの貴族であり、母からは由緒あるヴァンパイアの家系だと教えられていた。

 

 しかし彼は、娘(彩乃)が産まれる直前、本国へ帰っていた。その素顔は十七歳のきょうに至るまで、とうとう一度もお目にしないまま。

 

「おかさんとわたしって……おとさんにとって、いったいなんやったんやろっか……? やっぱ、うっせられた(長崎弁で『捨てられた』)んやろっかねぇ……☁」

 

 そのように考えながら町を歩いていると、母が故郷(長崎市)を離れて遠くへ移り住んだ理由も、なんとなくだが、わかるような気もしてくる。

 

 自分ば捨てた西洋人がごつか住んどる町なんち、やっぱ居づらかなんかがあるんやろうねぇ――と。

 

「あってま! やっぱひとりでおったら、考えることが暗ろうなってしまうばい☁」

 

 そこまで瞑想をして、彩乃はブルッと頭を横に振った。どこかモノ哀しい思いを中断させるために。

 

 気がつくと、彩乃は左右に土産物屋が並んでいる表の通りを通り越し、静かな山道の手前に差しかかっていた。

 

 別に山など登る気はないが、ヴァンパイアの性{さが}が、彩乃をここまで自然に呼び寄せたのであろうか。


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