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『剣遊記T』

第四章 旅の始まりは前途多難。

     (9)

「あ、あんた……け☠」

 

 そこまで出かかって、孝治は慌てて再び、自分の口を自分の両手でふさいだ。

 

 黒い法衣姿の男の名前も素性も、すでに孝治は知っていたからだ。しかも、もしも知っていることがバレたら、今よりももっと悪い事態となるのは間違いなかった。

 

 その代わりでありふれた質問を、孝治はごまかしのために口から出してみた。

 

「あ、あんた……誰?」

 

「わしの名など、どうでもよいわ!」

 

 男は答えてくれなかった。もちろん正しい返答など、聞くまでもなしだった。男の名が合馬の腰巾着――朽網であるのは、耶馬渓でしっかりと覚えて、言わば記憶済みであるのだから。

 

 だが、当の朽網は逆に目を凝らして、孝治の顔をじっくりと見つめていた。

 

「ん? おまえとはどこかで会ったか?」

 

(うわっち! やばっ!)

 

 孝治の心臓が、ギクッと高鳴った。しかし、ヘタに視線をそらすこともできなかった。態度と行動で、正体がチョンバレになるかもしれないからだ。

 

 ところが幸運にも、朽網は孝治を、それ以上追及してこなかった。どうやら今は、過去の記憶をほじくっている場合ではないようだ。

 

「まあ、いいわ☆ おまえのことはあとでゆっくり思い出すとして、とにかくわしは、こそこそ逃げようとする、おまえらが許せんのじゃい!」

 

「そ、そげな訳わからん理由で、おれたちば捕まえたと?」

 

 これこそまさに強引極まる、自己中心的正義感とでも言うべきだろうか。ある意味無茶苦茶な論理の展開で、孝治は頭の中が、完全真空真っ白の心境となった。

 

 無論朽網は、そんな孝治にお構いなし。たぶん、わかってもいないだろうけど。

 

「とにかくわしといっしょに、中隊長殿の所まで来い! おまえらそこでをきっちり吟味してくれるわ!」

 

 それこそ強引勝手に言い切ると、朽網が今も握り続けている友美の右手を、さらに力を込めた感じでグイッと引っ張った。

 

「きゃあ! 孝治ぃ!」

 

「うわっち! 友美ぃ!」

 

 これにて事態は、ますます悪化の一途。忍び足なんかせんで、もっと速足で逃げれば良かったぁ〜〜と、孝治の胸は、今さら遅い後悔でいっぱいになった。

 

 だけど今は、友美が人質同然に、朽網から右手を握られているのだ。ここは仕方なしで、この男の言うとおりにするしかないようだ。

 

「すみましぇん☂ こげんこってす、美奈子さん……☠」

 

 けっきょく、出発前のゴタゴタに、巻き込んでしまった格好。孝治は依頼人に申し訳ない気持ちで、うしろにそっと振り返った。

 

「うわっち!」

 

 見ると美奈子と千秋がお伴である角付きロバ――トラを連れ、現場からこっそりと離れようとしている最中だった。

 

 護衛であるはずの孝治と友美を置き去り。それこそ抜き足差し足忍び足で。

 

 もちろん見え見えな『この隙にトンズラ⛐』など、朽網が見逃すはずもなかった。

 

「そこのふたりと動物っ! おまえらも来るんだよぉ! ゴキブリみてえにこそこそすんじゃねえよ!」

 

 朽網から大声で一喝され、美奈子と千秋がそろって背中をビクッとさせたのが、孝治にもわかり過ぎるほどにわかってしまった。

 

(なして美奈子さんまで、こん朽網んおっさんば怖がっとうとや? おれの知っちょう限りでは、たぶん初対面っち思うとやけどぉ……?)

 

 孝治の疑問が、これにてさらに倍増化。それはとにかく、トンズラを簡単にあきらめたらしい。美奈子と千秋がすなおな態度で、これまたそろって回れ右をした。

 

 ただし、千秋の目線はこのとき、『あんたらが愚図愚図しとんのが悪いんや☠』の光を放って、孝治に向けてまっすぐに放射していた。

 

(おればにらんだかて、しょうがなかろうも♨)

 

 孝治も負けじと、視線を投げ返してやった。


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