『剣遊記Y』 第一章 黒崎店長、出張す。 (3) 「ほいで右のほうに見えますのがぁ、日本一の富士{ふじ}のお山でございまぁ〜〜っすぅっべぇ♡」
軽やかで明るい女の子の声音が、遥か高空、雲の上で響き渡った。
「ほんとぉ♡ 綺麗ねぇ〜〜♡」
ただし聞き手はひとりだけ。ペルシャ製の赤い絨毯に乗って、長い黒髪を風になびかせた、少女と大人の中間に位置する年代の女の子。また、空の上でも存在できる絨毯といえば――もうこれしかないだろう。
『空飛ぶ絨毯』に女性が乗って、雲の上を飛行中なのである。
まあ『空飛ぶ絨毯』などと月並みな表現ではあるが、もっと他にカッコいい名称が見当たらないのだから、これはこれで仕方がない。
その女性が右手の方向――富士山を眺めながら、大空の上で誰かに向けて呼びかけた。
「泰子{やすこ}ぉ〜〜! ちょっと富士山の周りを一周して行きましょうよぉ〜〜! どうせ時間はいっぱいあるんだからぁ〜〜!」
するととたんに、絨毯がクルリと右旋回。富士の上空を反時計回りに周回を開始。これではまるで、絨毯に人の意思があるかのよう――いや、実際にそうなのだ。
「ちょっと泰子ぉ! 速度出し過ぎっしょ〜〜!」
先ほどの軽やかな声音の女の子が、今度は慌て気味に絨毯を追った。しかも、こちらは絨毯に乗る必要はなし。なぜなら彼女は、自分の翼で飛行をしているのだから。
「ねえ〜〜! 沙織からもあにか言ってよぉ〜〜!」
「あらぁ、ごめんなさいねぇ〜〜☀」
絨毯に乗っている女性が振り返って、後方の女の子を笑顔で見つめ直した。
そう。絨毯の彼女こそが、黒崎の従妹――桃園沙織嬢なのである。その沙織は現在、東京市から『空飛ぶ絨毯』に乗って、空路北九州市へと向かっているところなのだ。
お伴――いやいや友をふたり伴なって(あれ? もうひとりはどこ?)
「浩子ぉ♡ さすがのハーピー{妖鳥人}も、飛行速度では風に勝てないみたいねぇ♥」
「沙織ったらぁ♨ そんなずんねぇ意地悪、言わなくたっていいじゃなぁいっぺぇ☹」
一生懸命に自分の翼で絨毯のあとを追いながらも、ちょっぴりむくれている短髪の女の子。名前は大蔵浩子{おおくら ひろこ}。彼女は沙織が言うとおりのハーピーである。
頭と胴はふつうの人だが、両腕は鳥の翼。問題の下半身は完全に鳥類の姿であるハーピーは、飛行に関してはお手の物――のはずである。だけどそんな彼女も、沙織が乗っている絨毯だけは、どういう理由からか、絶対に勝てないでいるのだ。
それと少々話の筋からは外れるが、ハーピーの弱点――ではなく、少し困った点を申せば、彼女たちは両手に指が存在しないのと、その体型のため、服を着ることが、どうしてもむずかしかった。だから今、浩子が着用している服装は、彼女のために沙織が特別に(夜鍋をして?)編んだ、ハーピー専用の両翼を大きく出せるようにした、赤い毛糸のセーターと、下にはブラジャーのみ。
もっとも浩子たちハーピーの場合、体質が完全に高空に適応しているので、本当はなにも着なくても充分寒さに耐えられる。しかし、それでも無理に服を着せる理由は、そのままだと女性の胸が丸出しとなって、風紀上とても大きな問題が生じるからである。
「ねえっ! ちょっと訊くんだけどぉ! 北九州市って、どんなぁ街なんべぇ?」
ここで浩子が、速度では負けているけど声では負けじと、沙織に思いっきり的大きな声で質問した。
さすがに大空の上ともなれば、強風がけっこうやかましい。またついでにノドも渇くけれど、これは我慢のしどころ。なにしろ飛行中は水分控えめ――が常識なのだから(空の上には、その……あれがない)。
この浩子の問いに、沙織も大きな声で応じ返した。
「実はぁ、わたしもすっごいひっさしぶりなのよぉ! けっこう大きい港町なんだけどねぇ!」
「そうすっとぉ! 東北生まれの泰子も初めてっしょぉ!」
引き続いての浩子の大声で、絨毯が軽く左右に揺れた。まさに絨毯が浩子の問いに、きちんと答えたとしか思えない仕草。
「そうよぉーーっ! 泰子も初めてだってぇーーっ!」
沙織が泰子とやらの存在に代弁するが、その彼女が何者であるかは後述。それより沙織は、再びうしろへと振り向いた。
「ああーーっ! 富士山がもう、あんなに遠くなってるぅーーっ!」
気がつけば、いつの間にやら周回飛行を終え、霊峰富士が、沙織たちより遥か後方となっていた。
沙織と浩子と――泰子(?)の三人は、東海道上空をひたすら西進。現在静岡市の上空に達していた。 (C)2012 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |