『剣遊記\』 第七章 そして海は静かになった。 (13) 高松港の本埠頭から、ずっと離れた小さな波止場。
老漁夫はここに、漁船を係留した。
「是{これ}似て今回の任務、全て完結にてござる。拙者も是似て、帰国の途に着かせて戴く所存似てござるか」
老漁夫の声は老人特有のしわがれ声ではなく、明らかに青年の声音となっていた。しかも老漁夫は周囲に人の気配がない様子を確かめてから、自分の左ほっぺたに手を当てた。すると生皮が剥がれるがのごとく、顔面がバリバリとめくられたではないか。
老人の顔は、仮面だったのだ。その仮面の下から現われた顔は、未来亭の御庭番――大里峰丸{だいり みねまる}に他ならなかった。
その大里が、ポツリとささやいた。
「大海蛇{シー・サーペント}と脇田殿との戦{いくさ}の際、手助けとは申せ、拙者の懐刀{ふところがたな}を失ったは、いやはや大変なる痛手似てござったわ」
シー・サーペントとシャチ――永二郎の死闘のとき、いきなりどこかから飛んできて、海の怪物の右眼に刺さった短刀は、実は大里が隙を見て投げつけた物だったのだ。
無論短刀は、今ごろ海の藻屑となって消えていることだろう。しかしそうは言っても、大里に後悔の気持ちはなかった。なにしろ変装をして、孝治たちを影から支援した理由は、主君である黒崎氏からの指令であったし、それよりも自分自身が、仲間の危機を見過ごしにはできないからだ。
「さて、是似て国に戻るは良しと致しても……」
誰も見ていないとはいえ、正体を完全に露呈している大里は、現在いつもの忍者装束ではなく、まったくふつうの市民風情の格好をしていた。
顔には縁の黒いメガネをかけ、白いTシャツに、灰色のよれよれズボンの姿。これも当然過ぎるほどに当然であろう。黒の衣装はあくまでも闇で活動するときに着用するモノであって、ふだんの隠密行動では、一般の服装で街を出歩いているのだから。
もっとも、今は服装の話をしているのではない。大里の懸念は別のところにあった。
「成り行きとは申せ、漁船の調達には多額の路銀を消耗致した似てござる。果たして黒崎氏が是を認めて呉れよう物似てござる事やら……」
さらにもうひとつの大事な問題は、帆柱が大里変装の老漁夫に、今回の礼金を支払いに再びこの地を訪れるときである。そのとき大里はもう一度、ここ高松港に来て、漁夫に変装しなければならないのだ。
ただでさえ忙しい忍びの身であるというのに、大里に多忙のネタは尽きそうになかった。
「是も又、忍び故{ゆえ}の宿命。戻る道はござらぬ故に」
次の瞬間、大里の姿が高松港の波止場から消えた。人目がない状況を良しとして、忍者の俊足で一気に駆け出したのだ。
実際、大里ほどの達人の足であれば、四国から九州まで、それこそ二日とかからない。しかも、これほどの快足で駆け抜けながらも、大里は余裕の笑みを、その表情に浮かべていた。
「扠{さ}て、拙者と孝治殿ら、如何{いか}方が先に黒崎氏の元へと帰り着き様か。是は是似て、面白き余興似てござるのぉ」
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