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『剣遊記]』

第六章 新人類の誕生。

     (9)

 しかしまだまだ、話は終わらなかった。このような事態になってもなお、よほどお腹を空かせていたらしい。カモシカが倒れているトレント――もはやただの杉である樹皮を、いまだ無心に頬張り続けていた。

 

 そんなある意味無垢の様相であるニホンカモシカに、祭子が優しげに瞳(虹彩も緑色)を向けた。

 

『……あなたが美香さんやっちゅうこと、あたし知っとうとですよ♡ あなたは知らなかったでしょうけど、ずっといっしょに旅ばしよったもんね♡ それよか危ないとこば助けてくれて、ほんなこつありがとうったいね♡

 

 それから祭子は、ペコリと頭を下げた。それでもなお、美香は食べるほうに夢中のままでいた。

 

 そこへ――だった。

 

「な、なんねぇ? 地震でもあったんけぇ?」

 

 大木が倒れて、今もなお部屋中に埃が充満している中だった。孝治の声が、宴会場の外のほうから聞こえてきた。実際にあれほどの轟音が屋敷全体に響いたのだから、これで気がつかないほうが不思議であろう。

 

『こらいけん!』

 

 カモシカ――美香には姿を見られたが、彼女以外の者たちには、まだ自分の正体を曝したくない。

 

『お父さんとお母さんば、お願いするったいね! あたしは元に戻りますけ!』

 

 祭子が美香に向けて、二回目の一礼をした。しかしどのように見ても、上の空の感じ。人のセリフを聞いているとは、まったく思えなかった。だけどそんな美香に構わず、祭子は自分の姿を部屋の真ん中で咲いている、幸いにも大木倒壊の難を免れている薔薇の樹木――律子の中へと溶け込ませた。

 

 つまり、母の胎内へと還ったわけ。

 

 これにてあとに残ったモノは、赤や黄色や紫の花を満開にさせている、薔薇の樹木のみとなる。しかもジッとしていると、どこからどのように見たところで、ふつうの薔薇だとしか思えない。

 

そんな感じ。

 

たとえこの場が室内であっても――いやそれ以前に、植物はジッとしているほうが当たり前なのだが。


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