『剣遊記X』 第三章 旅は三角関係と共に。 (11) それはそれとして、温泉はやはり気持ちの良いもの。時間もたっぷりあるし、孝治はもうしばらく、入浴を満喫し続けるつもりでいた。
孝治の裸にのぼせている裕志も上がろうとしないところを見ると、どうやら同じ気持ちでいるようだ。
そんなのんびりとした空気の中だった。急に山のあちらこちらから、キキぃぃ キキぃぃ キキぃぃ――といった、獣か鳥の声が響き渡った。
「ん? なんやろっか?」
孝治は思わず聞き耳を立てた。しかし裕志のほうは、いまだに耳をしっかりとふさいだまま。
「なあ、おれももうおっぱいば隠すけ、裕志ももうちょい気ぃ緩めてよかっちゃよ☀ 鳥や動物かて鳴き出して、いかにも森の奥の露天風呂っていった風情なんやけね☆」
さすがに意地悪を反省した気になって、孝治は裕志におとなしめの口調で声をかけてみた。
「う……うん……わわああっ!」
その裕志が両手を耳から離して孝治に振り返ったとたん、突然高い叫び声を上げた。
「うわっち♡ 見たっちゃね♡」
実のところ孝治は、自分の胸をさらに堂々と、裕志に見せつけていた。早い話、反省などほんのわずか。またまた意地悪の病{やまい}が再発したのだ。しかし裕志の目線は、このとき孝治には向いていなかった。
「うわっち? どげんしたとや?」
妙な事態に気づいた孝治は胸を丸出しにしたまま、裕志の元までバシャバシャと駆け寄った。裕志は温泉の上に繁茂しているブナの木立ちを、震えている右手で指差した。
「あ……あそこに……猿がおるっちゃよぉ……☠」
「猿ぅ?」
孝治は瞳を凝らし、裕志が指差す先に視線を向けた。
「うわっち! ほんなこつ!」
確かにブナの木の枝に、何頭ものニホンザルたちがたむろ中。ジッと孝治と裕志のふたりを見つめていた。
「……だ、大丈夫やろっか?」
裕志は野生猿たちの出現に怯え、自分の真横で全裸仁王立ちしている孝治に、まったく気づいていなかった。これはハッピーなのか、それともアン・ハッピーなのだろうか?
このような、なかば呆然状態でいる裕志は脇に置いて、孝治は涼子が言った猿が早くもお出ましになっただけと思い、ほっと安堵の息を吐いた。
「なんねぇ♠ エテ公が団体さんで来ただけっちゃね♣ ほんなこつビックリさせてからぁ♦」
『うわあ! 可愛かぁ!』
当の涼子も、猿たちの出現を喜んでいた。
「猿なんかもうほっとくばい✄ こっちが騒がんかったら、連中もなんもせんのやけ✍」
「でも、でもぉ……☁」
孝治は猿に無関心を決め込み、そのまま湯の中に、肩までジャボンと浸かり直した。だけど裕志は、まだ全身がガタガタと震えていた。
「……さ、猿の数がぁ……だんだん増えてきちょうように見えるんは、ぼくの気のせいやろっかぁ……☠」
「それって考え過ぎやって……♐」
孝治も強がりで、裕志に返した。だが確かに、森から出てくる猿たちの数が、どんどんとそのにぎやかさを増していく――ような気を、孝治も感じ始めた。
状況的には、極めて不穏とも言えた。
「きっとエテ公たちも温泉に入りに来たんばい♥ よかや、ジッと騒がず静かにしとくっちゃぞ☹」
「う……うん☂」
孝治と裕志は、目線でささやき合った。しかしそれからすぐ、本当に猿たちが温泉に入ってきた。
ニホンザルが温泉好きな話は、孝治も聞いた覚えがあった。だけど実物を見た経験は、きょうが初めてとなった。
「ね、ねえ……猿がどんどん入ってきようばい……☠」
「そ……そうっちゃね……☁」
裕志の怯えが、孝治にも伝染。今はこうしてふたり、ジッとしているから良いのかもしれない。しかしもしも誤って猿たちを怒らせたら、いったいどのような事態になるものやら。
(ちょっと……ヤバかっちゃねぇ……これって☠)
孝治は大事な剣を、脱衣場に置いているのを後悔した。しかし、こちらからチョッカイをかけなければなにもしない猿たちを相手に剣を向けるのも、少々大人げない行為だろう。それでも武器を手元に置かなかった失敗は、戦士にあるまじき失態といえた。
こんな孝治と裕志の不安など、まるで関係なし。猿たちは思い思いに、温泉を満喫中。子猿たちは群れだって岩場で飛び回り、親猿は肩まで湯に浸かって、我が身を癒していた。
これなら今のところ、猿のほうからチョッカイをかけてくる心配はなさそうだ。むしろ孝治と裕志の人間ふたりなど、猿たちは完全無視の様子でいた。 (C)2012 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |