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『剣遊記T』

第一章  災難は嵐の夜から。

     (16)

「うわっち? どこ行ったっちゃろっか?」

 

 孝治はほっと、ひと安心のつもりでつぶやいた。

 

「はぁ……やるだけやって、さっさと逃げんしゃったみたいやねぇ♪」

 

 女賊が行ってしまったなら行ってしまったで、これは命が助かっただけでもめっけもの。あとは友美が水浴から戻りしだい、こんな危ない所から、一刻も早くオサラバするっちゃね――と言ったところか。

 

 たとえ新米の身分であっても、今の孝治はいっちょ前の戦士として、とても情けない水準の心境にあった。

 

 早い話が隙だらけ。周囲にまったく気を配っていなかった。

 

「うわっち!」

 

 だから当然、報いを受けた。背後から急に強い力――というほどでもないが、奇襲攻撃の羽交い締めを喰らう大失敗となった。

 

 襲撃者はいうまでもなく女賊であった。

 

「あ、あんた! そこおったとぉ!」

 

「…………」

 

 慌てふためく孝治に対し、女賊はどこまでも無言のまま。しかもかなりむずかしそうなのだが、女賊はこれで体の態勢を整え直す離れ業も披露してくれた。

 

 孝治の全身の自由を奪ったままで、両手を使っての羽交い締めから、左手だけで首根っこを抑えるような格好へと。

 

 なんたる器用さ! 孝治を完全に抑え込んだままで、自分の右手を自由に使えるようにするとは。

 

 それでも強引に抵抗すれば、孝治の力でも、なんとかしてこの女賊の戒{いまし}めから逃れられるかもしれなかった。しかし、孝治の深層心理に刻み込まれている女性擁護意識(フェミニストの精神)と戦士としてのプライドが、その実行をためらわせていた。

 

(い、いかん……こん人は、女の人やけん、乱暴はいけんばい……☂)

 

 おのれが超危機的状況下にあっても、この信念は揺るがないのだから、これはもう自分自身への表彰状ものであろう。

 

「と、とにかく話し合おうや! ここは暴力はやめときぃ!」

 

 それでも孝治は必死に説得(?)をしてみたが、やはり駄目だった。女賊は無言のまま、空いている右手で忍び装束の懐{ふところ}を、なにやらごそごそとまさぐっていた。

 

 つまり、相変わらずの『聞く耳なし⛔』。やがてなにかを取り出し、それを孝治の口に、いきなり無理矢理で押し込んだ。

 

「うわっぷ!」

 

 口の中に強引にグイグイと押し込まれた物。それは小さなガラスの小瓶だった。

 

「うぐ、むぐぅぅぅ!」(な、なんねぇ、これぇ!)

 

 もちろん瓶であるから、中には液体が入っていた。孝治はその液体を、嫌でもゴクゴクと飲まされた。

 

(や、野菜ジュースけぇ!)

 

 生のキャベツほうれん草をすり潰して飲めば、恐らくこんな感じであろうか。要するに青臭い味と風味であった。

 

 けっきょく体の自由を束縛されたまま、孝治は瓶の中の野菜ジュース(?)を、一滴残らず飲まされる結果となった。同時に女賊が、ようやく戒めから解放してくれた。

 

 これにてどうやら、目的を果たしたようだ。

 

その成果なのだろうか。孝治の精神は、強烈な睡魔に侵され始めていた。

 

(な、なんねぇ……すっごう眠たかぁ……☃)

 

 もはや声も出せなかった。だけど事ここまで至れば、三歳の子供でも、瓶の中身が何であるのか、わかるというもの。

 

(これって……眠り薬やねぇ……ZZZ)

 

 やがて女賊が孝治から飛び離れ、現場から一目散に逃走した――らしいところまでは覚えていた。

 

ただし、その先はわからなかった。すでに深い爆睡の世界に入って、孝治はなにも思い出せなくなっていた。


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