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『剣遊記T』

第一章  災難は嵐の夜から。

     (14)

「と、友美け?」

 

 それでも初めはお約束どおり、孝治はパートナーの名を呼んでみた。

 

 返事はなし。もっとも、水浴で少し遠出をしている友美が、今ごろ近くにいるとは思えなかった。おまけに泉では、革鎧も衣服も全部そっくり脱いで――つまりは真っ裸でいるはず。

 

 よけいな想像図が頭に浮かぶだけで、孝治は全身がカァ〜〜ッと、高熱を帯びるような気持ちとなった。

 

 ここで顔面の赤化を感じた孝治は、慌てて目をつぶり、頭を左右にブルンブルンと振った。そんな孝治に合わせたわけでもないだろうけど、川の対岸からひょっこりと、怪しい気配の主{ぬし}が顔を出したではないか。

 

「うわっち!」

 

 孝治は大いに腰を抜かした。その主は背の高いススキをかき分け、それでも姿を見せないようにしているつもりらしい。なんだか四足動物みたいな、四つん這いの格好をしていた。もちろん頭のてっぺんから両足のつま先まで、全身黒の衣装を着込んでいる人物だった。

 

 今さら言うまでもないが、黒は茶色混じりである。従ってその人物は、孝治の記憶に鮮明な――昨夜から今朝方近くに至るまで、羽柴公爵の城を騒動の渦中に陥れた、女賊当人に間違いなかった。

 

「うわっち! あ、あんたね!」

 

 夜間は闇にまぎれて、よくわからなかった。だが今は、朝日の下に女賊はいた。全身に密着した黒系の忍び装束が、今や嫌と言えるほどに、完全公開の状態となっていた。

 

「こ、こげんとこにおったと……♾」

 

 この突然である予想外な出来事――かつ遭遇で、孝治はありふれたセリフしか、口から出せなかった。

 

しかし驚いている者は、孝治だけではなかった。女賊も声こそ出してはいないものの、唯一の露出部分である両目を大きく開いている様子が、孝治の目にも一目瞭然だったのだ。

 

(おれも油断ばしちょったけど……あちらさんもおんなじみたいやねぇ……

 

 それはそうとして、小さな小川をはさんでいる孝治と女賊。両者の肉迫ぶりは、わずか十歩も離れていない急接近もの。お互いその気になれば、すぐにでも相手に飛びかかれるような近さなのだ。

 

 しかし、今の孝治には、そのような戦意――もしくは闘志と呼べるような意思はなかった。それどころか、代わりに胸の中でめばえている心理は、女賊への奇妙な親近感ですらあった。

 

 あの傲岸不遜な合馬への反発心が、この不可思議な胸の内の要因になっているのかもしれなかった。これは態度の悪い野郎から道を尋ねられても、『知らん😑』と答えるような気持ちと同じであるのかも。

 

「あ、あんた……夜中の賊さんやね☛☻ おれはもう仕事が終わった身なんやけ、もうあんたば捕まえる気なんか、いっちょもなかと⛔ やけん安心してよかやけ♡」

 

 孝治としては、これで精いっぱいの温情をかけたつもり。ところが孝治の好意的な呼びかけに対する女賊の返答は、まさに恩知らずの極みでいた。

 

 女賊が四つん這いの姿勢からいきなり立ち上がり、両手を孝治に向けて突き出したのだ。


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