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『剣遊記T』

第三章 押しかけパートナーと天然系依頼人。

     (8)

 孝治は座ったままで、椅子から飛び上がった。涼子とつまらない問答をしていた間に、いつの間にか当の黒崎が、すぐ近くまで来ていたのだ。

 

(や、やっぱ……侮{あなど}れん人ばいねぇ……☠)

 

 孝治は改めて、黒崎に恐れと戦慄を感じ直した。そんな戦々恐々である孝治には構わず、黒崎は淡々とした態度を貫いた。両手に熱そうなコーヒー入りのカップを、一杯載せているトレイを持って。

 

「目覚ましにコーヒーを淹{い}れたんだが、よけいなお節介だったみたいだがや。ついでに仕事の件だが、孝治は嫌がっとったから、もうすぐ帰ってくる別の誰かに回すことにするがね」

 

 それだけを冷たく言い捨てると、黒崎がクルリと、孝治に背中を向けた。

 

 ふだん、冷静沈着、おまけに能面な者ほど、怒らせると怖い――の実例。孝治は飯のタネを失いかねない事態となった。

 

「うわっちぃーーっ! せっかく人がやる気になっとんのに、今んなってそれはなかでしょーーっ! やけん今のは失言ですけ、おれの本心やなかっちゃでぇーーっす! やけん、どげな仕事でもやりまぁーーっす!」

 

 しょせんは雇う側と雇われる側の関係。孝治は『見捨てんどって☂』とばかり、黒崎のけっこう長い両足に、必死の思いですがりついた。

 

 これはまさに、思わぬ場所にて涼子の前で、おのれの弱点を見せつけた格好。

 

『あたし、もしかして仲間ば選び損ねたんやなかろっか……見てはいけんモンば、見てしもうたみたいなね……☠』

 

 涼子のつぶやきが、孝治の耳まで届いてきた(黒崎にはたぶん、届いていない――と思う)。だけどそれに構う余裕もなし。今は背に腹は代えられんばい――と言える緊急事態なのだ。

 

 そんな孝治の健気な姿(多少、芝居臭いが☠)を見てか、黒崎が口の右端に、微かな笑みを浮かべていた。

 

「わかったがや。あとで仕事の打ち合わせを依頼人も交えて行なうつもりだったんだが……」

 

 黒崎がテーブルの上に、コーヒーを載せたトレイを置いた。それからズボンの右ポケットから、一枚のメモ用紙を取り出した。

 

「僕は急な用ができて、このあと勝美君といっしょに出かけないといけなくなったがや。このメモに依頼人が滞在している部屋の番号がきゃーとるけ、孝治と友美君で打ち合わせに行ってくれ」

 

 それだけを言い残し、孝治と、たぶん見えていないであろう涼子の前から、黒崎はゆっくりと立ち去った。向かう先は、執務室のある二階だった。

 

涼子がそっと、孝治の右耳にささやいた。

 

『店長っち、行きながらニヤニヤしよったっちゃね☻ きっと孝治ば、からこうたつもりなんやろうねぇ♥』

 

 これに孝治は、とびっきり苦い青汁を、約五百二十杯分飲まされた気分で応えた。

 

「あん人はいつも、あげな人っちゃけねぇ☢ 初めて会{お}うたときから、人の裏側ばすぐ見抜いてしまうようなね☠」

 

無論そのような思いの孝治など、涼子には関係なし。初対面から変わらずの、キャピキャピぶりでいた。

 

『でも、でも、未来亭ってほんなこつ、そーとーおもしろか人が集まっとうとこなんやねぇ♡ あたし、これからの毎日が、すっごう楽しみばい☀☆』

 

「そのおもしろか人ん中に、きょうから涼子も入ったっちゃろうが☠」

 

『きゃははっ! そんとおりっちゃね♡』

 

 孝治から皮肉を言われても、まったく動じる様子もなし。いまだ変わらずの肩車のまま、『えへっ』と可愛らしく舌を出す、明るい幽霊(?)の涼子であった。


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