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『剣遊記W』

第一章  流れ着いた男たち。

     (12)

 この時点までは、まったく存在感がなかった。だが裕志は荒生田の影というか、背後霊のように静かに付き従っていたのだ。

 

 しかもきょうは、給仕係である一枝由香{いちえだ ゆか}も、いっしょに付き添っていた。

 

 裕志と由香の関係(恋人同士)を知らない者は、少なくとも未来亭の中ではひとりもいないはず――なのだが、唯一の例外的な存在が、先輩である荒生田なのだ。

 

 恐らくこのサングラス男は、たとえ天と地が引っくり返っても後輩に彼女ができるなど絶対に有り得ないと、頭の底から勝手に決めつけているに違いない。だから裕志と由香が同時に現われたというのに、なんの不思議も感じていない顔で、ただふつうに怒鳴るだけなのだ。

 

 今夜のお酒だけを考えて。

 

 でもって怒鳴られた裕志が、うろたえ気味で先輩戦士に応えていた。

 

「あっ! ええ……だ、大丈夫です! いつもの焼き肉屋さんで、もう到津さんが先に行って待ってますけ☆」

 

 裕志としては命じられたお店の予約を、ただ真面目に実行しただけであろう。しかしこれは、かなり思い上がっている振る舞いとも言えそうだ。つまり荒生田たちは大会が始まる以前から、すでに勝った予定で、祝勝会の準備を整えていたわけであるから。

 

 しかしこれは、裕志も事前に承知済みにしていた――とも言う。

 

(まあ、負けたら負けたで、残念会に変更すればよかっちゃけね☁☺)

 

 これは裕志が大会前にささやいていた本音を、孝治も耳に入れていた話である。

 

 なお、裕志の本心は、これともうひとつ。荒生田を祝勝会に行かせたあと、その先は幹事役である到津福麿{いとうづ ふくまろ}にすべてをお任せ。自分は由香といっしょに、別の場所へ遊びに行くつもりだと、これも孝治に言っていた。

 

 ところがやはり、世の中思いどおりにはいかないもの。

 

「それじゃ先輩、ぼくたちはこれで✈」

 

「ばぁ〜たれ☠ おまえも来るっちゃよ!」

 

 後輩の都合など、夢にも考慮などしない荒生田が、裕志の個人行動を許すはずがなかった。

 

「い、いえ……ぼ、ぼくは……痛っ!」

 

 恐らくこの事態は想定外だったのであろう。早くも裕志は、狼狽の極致。由香がそんな裕志の右手の甲を、思いっきりの力でつねっていた。

 

「ちょっとぉ! こんあとあたしたちだけで遊びに行く約束ば、いったいどげんなるとぉ?」

 

「あ痛たたたたたたっ! ご、ごめん! 先輩があげん言い出したら、ぼくにはとても……☂☃」

 

 裕志の言い訳は、聞いて涙を誘う要素がありあり。とにかく幼少のころから、なぜか荒生田に頭が上がらない裕志なのだ。この習性は恐らく、遺伝子レベルにまで深く刻み込まれているに違いない。

 

 ところが由香は、裕志の不甲斐なさに、さすがにキレたご様子。

 

「じゃあ、あたしも行くけ!」

 

「ええーーっ!」

 

 由香のある意味重大な決断に、裕志が飛び上がった。ただし高さは大したことなし。せいぜい五十センチくらい。

 

「裕志さんひとりじゃまた先輩からいじめられるけ、あたしがいっしょに行って守ってあげるけね♨」

 

「そ、そげなん……由香に悪いちゃよぉ……ありがと……♥♥♥」

 

 けっきょく由香の好意というか、自分以上の威勢に甘えてしまう裕志。やっぱり情けなかった。


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