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『剣遊記]』

第一章  闇より迫る緑の影。

     (4)

「しっ!」

 

 すぐに孝治は口元で右手人差し指を立て、涼子を黙らせようとした。涼子が全裸でいるのは、初対面のときからずっと変わっていない姿である。だからそれを今さら注意しようとは、もはや孝治はカケラも思っていなかった。おまけにその顔が、友美とまったくクリソツであることも、孝治の瞳にはとっくに慣れっこの話。

 

 ただ、ここには実情を知らない裕志がいる。さらに、もうひとり。

 

「あら? あたし、なんも言うとらんけど?」

 

 孝治の『しっ!』は肝心の涼子を通り抜け、未来亭の給仕係を代表(?)して裕志の見送りにたった今出てきたばかりの一枝由香{いちえだ ゆか}に、見事ぶつかったようだった。

 

「うわっち! ご、ごめん! 人違いやったばい!」

 

「変なの?」

 

 孝治は顔面が瞬く間に赤くなる思いで、頭を横に振りまくった。だけど幸運にして、由香の関心は完全に、裕志一色となっていた。幽霊涼子の存在をやはり知らない由香は、それ以上孝治には気を向けず、もっぱら裕志にすり寄るばかり。

 

「ねえ、今回は急な話やったもんやけ、どげんしたって給仕の仕事が休めんもんやけあきらめたっちゃけど……こん次帰るときは絶対、あたしも実家に連れてってや☀ あたし、裕志さんのお父さんとお母さんに、ぜひともご挨拶したいっちゃけね♡♡」

 

「う、うん……そんときは必ず……っちゃけね……✈」

 

 由香の気迫に、裕志はもろ押され気味のご様子。

 

 実際由香と裕志は未来亭では知らない者がいないほどの相思相愛関係でいるのだが、今回だけは残念ながら、離れ離れの憂き目を見るようだ。もっとも、この世には必ず例外があって、唯一このふたりの仲を知らない荒生田が、いつも裕志を連れ立って日本中を冒険して周るのだ。そのためにふたりだけの時間を、なかなか作りづらいのが現状でもあった。

 

 これでは極めて不幸な恋人同士とも言える話であろう。

 

「んじゃ……行ってくるけね……☁」

 

 あまり見送りに時間を取って、先輩にバレたらそれこそ元も子もなし。この辺りを節目にして、裕志は未来亭から出発した。

 

 あとから起こりそうなゴタゴタを、すべて孝治に託した感じで。


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