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『剣遊記]』

第一章  闇より迫る緑の影。

     (2)

 寝室から玄関までは忍び足。音を立てないようにしてドアを開くと、外には誰もいる気配がなかった。

 

 秀正と律子の住居は平屋の一戸建てだが、実はこれが、ただの邸宅ではない。なにしろ庭一面はおろか、家屋の壁面から屋根の上までビッシリと、薔薇の蔓が覆っている有様なのだ。

 

 おまけに今の季節(初夏)は、薔薇の花がまさに満開の真っ盛り。赤や黄色の花々が月光に照らされ、ただでさえ魔性の雰囲気を持つ薔薇の花が、より一層の幻想的な情景を創りだしていた。

 

 夫である秀正は、このような我が家の現状を嘆いていた。しかし律子は薔薇の花に異常とも言えそうなほどの愛着を示し、家全体を薔薇の花で飾るように望みに望みまくったあげく、けっきょく秀正が愛妻に折れたかたち。家中を薔薇で埋め尽くす所業に同意をした。

 

 泣く子と愛妻(または鬼嫁)には勝てないの実例。

 

 とにかくおかげで、近所からは薔薇屋敷などとからかわれ、友人たちからも笑われる日々の多い秀正であった。けれど、愛妻律子がこれで喜んでいるのだから、秀正も今では、それなりの満足気分を味わっていた。

 

 その薔薇屋敷の玄関土間に、封筒が一枚落ちていた。律子はすぐにそれに気がつき、腰を落として右手で拾い上げてみた。左手には角燈を持っているので。

 

 それから一番に、差し出し人の名前を確認しようとした。だが封筒は、表も裏もまったくの白紙。一字も文字が書かれていなかった。

 

 無論、宛名も無記入のまま。

 

 しかし、封筒の中にはたくさんの紙が折り畳んで押し込まれている感じが明らかだった。現に、それだけの厚みが封筒にはあるのだから。

 

 律子は封筒を右手で握ると、すぐに家の中へと戻った。それから即、ドアを閉める。もちろん内側から、しっかりと施錠も忘れない。

 

 先ほどの物音は、何者かがこの封筒をドアの前に置いたとき、故意に立てたに違いない。そのやり方から考えて、届け人の悪意は明白といえた。

 

「……まさか、あいつが……祭子が産まれたっち知って……ここまで来たっち……言うと?」

 

 差し出し人の名前は無いが、封筒を出した者について、律子には心当たりがあった。

 

 なによりも、封筒の表紙に唯一押印されている薔薇の花をかたどった紋章の印が、律子の心臓を根底から徹底的に打ちのめしてくれた。

 

「わたしたち……ここでおとなしゅう暮らしとうだけやっちゅうとに……ここまで追ってきたっちゅうとね……?」

 

 その夜、封筒の中に押し込まれていた手紙の内容を読んだ律子は、人知れず涙で両目をにじませた。

 

 なにも知らずに静かに眠っている愛娘――祭子の寝室に戻ってからもなお。


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