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『剣遊記]』

第一章  闇より迫る緑の影。

     (12)

 関門海峡の門司側渡船場に、海峡航路の定期連絡船が入港した。ただし、きょうに限って皇室御用達お召し船通過のため、海峡を航行する船舶は、往来が厳しい制限を受けていた。そのおかげで発着の時刻は、大幅な遅延を余儀なくされていたのだ。

 

 そのようなつまらない理由で遅れた事態により、これまた予定の変更を強いられた一般の乗客たちは、全員不満たらたらの顔で船から降りていた。

 

「けっ! 高がお偉い奴の船が通るだけで、なして俺たちがトバッチリば受けにゃならんとや♨」

 

「もう二度と来んでほしいっちゃねぇ、ったく♨」

 

 渡船場の職員が、そんな客たちひとりひとりに向け、申し訳なさそうに頭を下げていた。

 

「どうも、すみませんです、はい☂ あしたはこげなことが無いようにいたしますんで☁」

 

 そうは言っても、相手は親方皇室である。またいつの日か、気まぐれで海峡を通る愚行を起こさないとも限らない。だから彼ら職員の頭の中にも、不平不満が大きな渦を巻いていた。

 

(なしてオレがあげな年食ったお坊っちゃんのせいで、こげんペコペコせんといけんとや♨ ほんなこつ今言うた客んとおり、二度とこの関門海峡に来んでほしいっちゃねぇ……おっ?)

 

 そんな彼の目の前を、たった今連絡船から降りたらしい、最後の客が立ち止まった。

 

「お……お客さん?」

 

 もちろん船賃を払って乗船していたのだろうから、確かに客には違いなかろう。

 

 しかし、人ではなかった。

 

 蹄{ひづめ}のある四本の足で歩行。全身が灰褐色の獣毛に包まれた、その姿。さらに頭部に二本の角が生えている者といえば、それはウシ科哺乳類の特徴ではないだろうか。

 

 海を職場とする渡船場の職員がその動物を見た経験は、きょうが初めてとなった。だけど、話では聞いた覚えがあった。

 

「……ニホンカモシカが、なしてここにおるとや?」

 

 日本列島に野生のカモシカ――つまりニホンカモシカが棲息をしている話は、海を職場とする彼でも知っていた。またそのカモシカが、国の特別天然記念物に指定されている経緯と現在の状況(保護の現状など)も。

 

 だが、それが客として連絡船に乗るとは、正直聞いたことはなし。もちろん考えたことすらなかった。

 

 そんなとまどい気味である渡船場職員の右手に、当のニホンカモシカが口にくわえていた乗船切符を、ポンと手渡した――もとい口渡した。それから悠々と彼の目の前を通り過ぎ、門司の港に上陸した。

 

 この実に知的なる仕草。さらにカモシカの首にくくられている、唐草模様の風呂敷包みを拝見すれば、その正体は明らかだった。

 

「な、なんねぇ、あんカモシカ……ライカンスロープ{獣人}やったんけぇ……でも、なんかふつうと違うみたいっちゃねぇ☁」

 

 職員がとまどった理由は、次に記すようなもの。

 

 世に変身を生業とするライカンスロープの人口は、その種類さながらけっこう多い。だけど、彼らや彼女たちが獣の姿に変身をする場合は、それこそ自分の気が向いたときと必要性が生じたときぐらいなものである。従って、ふだんは誰もが人の姿格好で、まったくふつうに暮らしている。

 

 だからワーシーロー{氈鹿{かもしか}人間}自体には、なんの珍しさもなかった。それよりも問題は、獣に変身したままで船に乗ったりとか、また街中を気ままに歩き回る大胆不敵ぶりにあるのだ。

 

「……まっ、世の中にゃあ、けっこう物好きがいっぱいおるけねぇ☻ あげなんがひとりかふたりおってもええか♥」

 

 ワーシ−ローの常識を超えた行動ぶりに呆れると言うよりも、むしろ自分自身を納得させるような気持ちであった。渡船場の職員は、波止場から四つ足で立ち去るニホンカモシカの後ろ姿を、好奇心でずっと眺め続けていた。


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