『剣遊記V』 第六章 これにて一件落着。 (16) 一礼を下げると同時だった。大里がその黒い姿を、黒崎の前から霞{かすみ}のように消失させた。
正しくは、部屋の天井に用意してある隠し扉に、素早く身を飛び込ませたのだ。だが、それを熟知しているはずである黒崎の目を持ってしても、大里が一瞬にして音も無く消え失せたようにしか見えなかった。
そのすぐあと。大里が言ったとおりほんのわずかな間を置いて、孝治、秀正、正男の三人が、黒崎の執務室に入ってきた。
「店長、入りますばぁ〜〜い♡」
最初にドアを開いた者は、三人をうしろに連れた、秘書の勝美。しかし勝美は黒崎の専属秘書でありながら、前述したとおり御庭番――大里の存在を知らない。だから大里の在室中は別の用を言いつけられ、他の場所に出向いていた。
もちろんその辺の事情は、孝治たちも同様。たった今までこの部屋に本物の忍者がいたなど、知りようもない。
「まあ、入りたまえ。とにかく今回の仕事も苦労が多かったようだがね」
何食わぬ顔をして、黒崎は孝治たち三人を、部屋の中へと招き入れた。
「勝美君、お茶でも出してあげたまえ」
「はい、店長♡」
ピクシーである勝美はすぐに魔術の力でポットや急須を操り、三人分のお茶を用意した(嗚呼、便利な話)。
そんな勝美が小さな体で、玄米茶を淹れている間であった。孝治は勧められてもいないうちから、部屋にあるソファーにドカッと腰を下ろしていた。
しかし偉そうに踏ん反り返ってはいるものの、孝治はもっか、大門隊長の大誤解的思い込みが、心配のタネとなっていた。
それも今のところは、砂津と井堀の説得に、頼りないながらも期待をかけるしかない状況。そんな不安をまぎらす意味もあって、孝治はわざと、態度を大きくしているのだ。
「……泥棒の捕り物くらい、どげんこともなかですよ♡ それよか今回の報酬ば、もう振り込まれとるんですか?」
孝治の問いに黒崎は、淡々とした顔で答えてくれた。
「なんだ。そんなことだがね」
「『そんなことだがね』はなかでしょ☠ こっちは生活がでたんかかっちょるんやけぇ☞」
黒崎の態度にもろ不満を感じながらも、雇用主を怒らせては損である。孝治はそれ以上突っ込まず、次の黒崎の言葉を待っていた。
すぐに黒崎が回答してくれた。
「まあ、そうだな。申し訳ないが相手がお役所なだけあって、申請や手続きその他で、もうしばらく支払いに時間を費やしそうだがね。そうだったね、勝美君」
勝美もすぐに、即答した。
「はい、店長。孝治くんもわがまま言うとらんで私が手続きばしよるんやけ、もうちょい待ってや♐」
「う、うん……☁」
勝美までから釘を打たれては、孝治もおとなしく引き下がるしかない。そこへ黒崎が、さらに付け加えてくれた。
「まあ、役所は嘘だけは言わんから、報酬が滞ることだけはないことを、僕が保証しよう」
「まっ、親方日の丸は書類と判子が好きやけんねぇ☆」
孝治の左でソファーに座っている秀正も、ふふんと苦笑していた。
「ところで、その話を少し脇に置いてだが……」
黒崎が目線を机の引き出しへと転じ、中から一枚の用紙を取り出した。
「実は次の仕事の依頼が来とるんだがね。これは大学の古代遺跡調査隊の護衛だがや。そこで腕の立つ戦士と盗賊を派遣してほしいとの要請なんだが、これに行ってくれないか?」
「ええ〜〜っ! またですかぁ〜〜☠」
何事があろうとも、いつもとまったく変わらない、黒崎の事務的仕事斡旋{あっせん}。しかしきょうに限って、孝治は気乗りがしなかった。その理由は、衛兵隊長の一件に尽きるのだが。
「ここんとこずっと仕事続きやったけ、おれはもう心身ともにくたくたですっちゃよ☢ やけん、これは誰か別ん人に回してくださいよ☃」
面倒臭そうに、孝治は黒崎に言葉を返した。これに黒崎は、一見物わかりがよさそうな態度を見せてうなずいた。
「そうか。それは残念だがや」
さらに黒崎は椅子から立ち上がり、窓から中庭に目を向けた。それから孝治たちに背中を向け、そっとささやいた。
「そう言えば、荒生田たちがそろそろ新潟の旅から帰ってくる予定だがね。今度は佐渡から金塊を山ほどかかえてきゃーると豪語していたが……楽しみなことだな」
黒崎の口振りは、明らかに演技混じりのものだった。しかし孝治は、天敵である荒生田先輩の名前が出たとたん、心臓がドキンと激しく鼓動した。
「うわっち!」
すぐにバネ仕掛け人形のごとく素早くソファーから立ち上がり、ためらわずに前言を撤回した。
「店長! おれやっぱ遺跡調査ば行ってきますっちゃ! いや、行かせてください! お願いやけん!」
この孝治の超急変的態度に、勝美も瞳を丸くしていた。
「ざっとなかやねぇ(佐賀弁で『大変だ』)、孝治くんも♀♂」
また黒崎も、本心では『してやったり』の思いでいた。しかしあくまでも、態度は冷静かつ沈着に徹していた。
「そうか、すまないなぁ。さて、そうなると盗賊は誰を派遣するかだが……遺跡の扉を開くのには高度な技術者が必要だからな」
「そげなんお任せください! なっ、秀正もよかっちゃろ!」
変態先輩嫌さに、孝治は必死の思いで秀正に両手を合わせて拝み込んだ。だけど今回は、つれない返事。
「おれは今回降りるけね✋ そろそろ律子の実家に帰らんといけんのやけ♡」
「うわっち! ならば!」
続いて孝治は、正男に白羽の矢を立てた。これに正男は軽い感じで、訊かれる前に答えてくれた。
「おれならよかっちゃぜ♠ どうせ、暇なんやけ♣」
期待どおりの返答で、孝治はまさに狂喜乱舞。
「すまん! 恩に生きるけ! そんじゃおれたち、早速出発の準備ばしてきますけねぇーーっ♡」
「こらぁ! ちょっと気が早かぞぉ!」
ニュースをばら撒くときは異常に速いくせして、こんな場合はおっとり刀でいるワーウルフ――正男の右手を無理矢理引っ張り、孝治はバタバタと執務室から退場。これもふだんであらば、正男のほうが足は速いはずなのだが。
このあと秀正も、軽く一礼。同じく退室した。
残った黒崎は、孝治、秀正、正男の三人が慌ただしく出ていったあとのドアを見つめながら、なんだか無性におもしろくなった気分で、独り言をささやいた。
「ふっ、さすがの孝治も、まだまだ先輩には敵わないようだがや。これも峰丸に言わせれば、『修行が足りない』ってことになるのかな」
「えっ♐ 店長、なんか言いました?」
このとき驚いた顔して振り向いた勝美にも、黒崎は笑みを浮かべたままで応じるのみであった。
「いいや、こちらのことだがね」
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