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『剣遊記V』

第六章 これにて一件落着。

     (15)

 黒崎は執務室で、某重要書類の原稿を作成していた。そんな敏腕店長の面前に、もうひとり――いつもの秘書である勝美ではない。全身黒装束の男が控えていた。

 

 黒崎は最初、男の報告を真摯に聞いたあと、ふだんの表情となり、元の事務仕事に戻っただけでいた。また男のほうも、ただジッと直立不動の姿勢で、なにかを待ち続けている態度を貫いていた。

 

 しばらくして、黒崎は事務の手を止めた。それから黒い男に、ようやく声をかけた。自分自身でも固いがや――と自覚していた表情に、満足の笑みを浮かべながらで。

 

「ここのところ、ずっと苦労のかけどおしだったがや、峰丸、君がいつものとおり裏で活動してくれたおかげで、今回も敏速に事が運んだよ」

 

 これに男のほうも満足そうな顔――いや、口の端だけに笑みを浮かべた感じで応えた。

 

「何の此{こ}れしきの事。是全て、黒崎家に仕える御庭番の御役目にてござる。其れが主君直々拠{よ}り、此の様なお誉めの御言葉に授かる事に相成ろうとは、拙者、是に勝る誉{ほま}れを存じ上げぬでござる」

 

 黒崎のセリフどおり、男は昨夜来から、完全に働きどおしでいた。しかし感情をまったく表には出さず、その勇ましい服装に似合った不動の姿勢を、目の前にいる黒崎に見せていた。

 

 ここで男の正体を明かすとしよう。彼の名は大里峰丸{だいり みねまる}。黒崎家に代々仕える御庭番の末裔であり、忍術を生業とする男なのである。

 

 さらにもしも今、この場に孝治か秀正、あるいは大門隊長が居合わせていたとしたら――と仮定する。恐らく三人そろって、なんとなく大里の声に聞き覚えがある――と、証言するかもしれない。

 

 あの日――場末の酒屋で出会った謎の老人の声を(覚えていればの話であるが)、少し若くした感じに似ちょうばい――と。

 

「孝治たちも知らぬが仏というものだがね。あの日は峰丸が老人の変装をして大門隊長に接触を図ったんだが、まさか孝治と秀正もいっしょだったとはな」

 

「其処{そこ}の所の手抜かりは万事ござらぬ故、黒崎氏{うじ}は普段通りに構えて居{お}られて結構にてござる」

 

 早い話。あの日の老人の正体は、ここにいる峰丸なのだ。さらに彼に命じて大門との接触を図らせた張本人は、言うまでもなく黒崎である。

 

「とにかく峰丸のおかげで、亀打保を主犯とする怪盗団の摘発に成功し、大門隊長の未来亭に対する評価も、おおむね良好となったがや。恐らくこれから先も、なにかの事件が発生した場合、捜査への協力依頼の形で、孝治たちの仕事も増えることに違いなかろう。これは我が未来亭にとって、新たな市場の開拓となるわけだがね」

 

「黒崎氏も、深く御考慮をされて御出{おい}でにてござるな」

 

「まあな。これくらいは経営者として、当然だがや」

 

 御庭番から、やや軽い揶揄{やゆ}を返された感もあった。それでも黒崎は自分の表情から、不敵な笑みを隠す気はなかった。

 

 実際、黒崎は新任の衛兵隊長である大門が見た目の硬骨さに似合わず、意外に柔軟な考え方のできる男だと、幼少のころに初めて会ったときから判断をしていた。そこで今回、御庭番である大里に命じて、裏からの支援工作を行なったのだ。

 

 これが功を奏した結果となったので、未来亭への仕事依頼を、これから衛兵隊がためらうなど有り得ないであろう。

 

 さらに付け加えれば、大門の少々おっちょこちょいな性格も、極めて好都合といえた。

 

「其れは良しにてござるが、拙者、此度{こたび}の御役目にて、聊{いささ}か修行の不足を感じ入り申した次第{しだい}にてござる」

 

「ほう、それはまたちょっと気になる言い方だがや。いったいなにがどうしたんだ?」

 

 机の上に置いてある書類を右脇に寄せ、黒崎は大里が口走ったセリフに耳を傾けた。すると大里は、先ほどまでの柔和な姿勢とは打って変わり、今度は神妙そうな口振りとなった。

 

「実を申すと、怪盗団一味に拙者の忍法『金縛り』を仕掛けたまでは良しにてござるが、首領のみ術の解き放ちが予想外に早目でござった故。拙者、未{ま}だ未{ま}だ伊賀{いが}忍法の真髄に達して無き事を、肝に深く命ずる由にてござる」

 

「それはいかんがや」

 

 などと一応深く相槌を入れたものの、黒崎は大里ほどには、深刻さを感じていなかった。その理由は御庭番としての大里の腕に、百点満点の信頼を預けているからだ。

 

「なんだったらしばらく暇を与えるから、故郷の伊賀の里に戻って休養をしたらどうだがや? 君の忍術に陰りがあると、それは僕にとっても大きな損失だがね」

 

「ははっ! 主君御自らの温情有る御心尽くし。此の大里峰丸、真に持って有り難き幸せにてござる」

 

 ここで右の膝を床に跪け、かなり大袈裟な姿勢で、大里が黒崎に忠誠の意を示す。先祖代々から続く血筋もあって、どこまでも主君――黒崎家に忠実な男なのだ。

 

 これらひととおりの忠義を終えたところで、大里が深く下げていた頭を上げた。

 

「むっ、此の足音は」

 

 黒崎も手慣れたものである。すぐ大里の行動に気がついた。

 

「どうしたがや? 誰か来るのか」

 

 大里は忠義の姿勢から一転。床に左側の耳をすり付けて答えた。

 

「如何{どう}やら是は、鞘ヶ谷殿と和布利殿。其れに枝光殿の御三方が、此の部屋に参られる様にてござるな」

 

「ほう、それはほんとかね」

 

 もちろん黒崎の耳には、わずかな音さえ聞こえていない。しかし、有能な御庭番を疑う気持ちも、黒崎には皆無である。

 

「さすがだがや。僕には足音などまったく聞こえないのに、ほんの少しの気配で来訪者がわかるんだからな。これでは修行が足りないなんて言う君の言葉のほうが、僕にはまるで信じられないよ」

 

 今も盛んに絶賛を繰り返す黒崎の前で、大里が服従の姿勢から立ち上がる。

 

「拙者の姿が露見{ろけん}致すは、甚{はなは}だ不都合にてござるな。では、是にて御免!」


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