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『剣遊記Y』

第六章 黒崎店長、帰店す。

     (6)

 執務室には、ただひとり。黒崎だけが残された。その黒崎が、天井を見上げて呼びかけた。

 

「峰丸、来てほしいがや」

 

「はっ!」

 

 すぐに返事が戻り、間髪を入れず瞬間的に、御庭番の大里が執務机の前に参上。黒崎が気づいたときにはすでに、右の膝を床に付けた格好――全身茶色混じりの黒尽くめ姿で控えていた。

 

 いったい執務室のどこに潜んでいたのやら。相変わらず予兆も気配もまったく感じさせずに。

 

「黒崎氏、御呼びにてござるか」

 

 参上したときの服従姿勢のままで、大里が主君――黒崎からの言葉を待つ。そんな御庭番をやはり頼もしく感じながら、まずは黒崎が問いを始めた。

 

「今のふたりだが、峰丸、君はどう思うがや?」

 

「はっ! 今程の両名にてござろうか」

 

「そうだ」

 

 大里は右膝を床に付けたまま、語調に力を込めた。

 

「然様{さよう}にてござるな。拙者如きが愚考{ぐこう}致すに、両名共に彼{あ}の儘{まま}商人如きで終わる事無き器量にてござろうか。何時{いつ}か何処{いずこ}かに置いて、我らの面前に大尽{だいじん}と成って現われ様かと拙者邪推{じゃすい}致すにてござるが、此の様な返答にて宜{よろ}しきにござるかな」

 

「わかったがや、それで充分だ」

 

 黒崎は『なるほど』顔でうなずいた。また大里も、口の端を少々ニヤつかせていた。

 

「はっ! 畏{かしこ}まり候{そうろう}にてござる。其{そ}れと黒崎氏。未{ま}だ何か訊きたき事が有る様にてござるが」

 

「そうだがや。もうひとつ訊きたいことがある」

 

 ここでいったん、ふたりの大阪商人から話題を変え、黒崎が机に置いてあった先の報告書に目を移す。

 

「君は沙織の総合評価を七十点と採点したそうだが、その根拠はなんだがや?」

 

「沙織殿の件にてござるか。いやはや此れは少々、困り申したにてござるな」

 

 話がこの場にはいない沙織の件になったとたん、大里の顔に、今度は苦笑の色が浮かんだ。

 

「正直に申す処{ところ}、此れには拙者自身の独断も加味して居るのでござるが、沙織殿の経営手腕並びに人心掌握術は稍々{やや}及第{きゅうだい}成れと感じ得る次第にてござる。只{ただ}、拙者如きが愚考致すに、若き故の無謀も一部露見し得るにござるが……未来亭の業務自体に就いては、黒崎氏の御基盤が略{ほ}ぼ盤石{ばんじゃく}故に、手を出し辛かったが実情でござろう」

 

「なるほどぉ、未来亭の店長代理は沙織にとって、少し荷が重たかったかもしれん……っちゅうことだがや」

 

「然様、異論在{あ}らば、拙者今一度検分し直し候奉{そうろうたてまつ}るが、如何{いかが}にてござろうか」

 

「いや、その必要まではないがや。これで充分だがね」

 

 黒崎は大里を控えさせたままで椅子から立ち上がり、窓辺から空を見上げ、感傷的な口ぶりでささやいた。

 

「それにしても、今回はずいぶんと慌ただしかったもんだがや。できれば沙織と直接会って、いろいろと彼女の考えを聞いてみたかったんだが」

 

「差し出がましい事乍{なが}ら、其れは叶わぬ申し出にてござる。沙織殿は黒崎氏が帰店為される前日に此処{ここ}を旅立たれ、東の都、東京市に御戻り為された故に」

 

 大里の言葉からは、すでに苦笑は消えていた。黒崎はやはり窓から空を眺めたままで、御庭番の言葉に応えた。

 

「そうだな。本業の大学を、いつまでも休んでいるわけにもいかんからなぁ」

 

 東の帝都――東京の方角である東の空を見つめ、黒崎はすれ違いになった従妹の奮闘ぶりに感謝の思いを胸に抱きつつ、次のような考え事も、頭に巡らせていた。

 

(……それにしてもなんだが……最近、僕の出番が妙に少ないような気がするんだがね……)


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