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『剣遊記Y』

第四章 金髪魔神あらわる。

     (10)

 浴場は男女別に仕切ってあるとはいえ、一枚の壁だけを隔てて、天井は吹き抜けで繋がっていた。だからどうしても、声と音が筒抜けとなってしまう構造なのだ。

 

 つまりなんの因果かは知らないが、偶然同じ時刻に風呂に入っていたらしい荒生田が、得意の地獄耳で女湯にいる孝治の声をキャッチしたのだろう。

 

「うわっち! せ、先輩っ!」

 

 今まではなんとか時間をズラして、変態戦士との同時刻入浴を、孝治は極力避けてきた。

 

 だがきょうに限って、油断をしたようだ。

 

 しかも男女別とは言っても、間を仕切る物は天井部分が開いた壁が、一枚あるだけ。おまけに荒生田は、覗きの常習犯でもある。

 

あの日の夜は冤罪であったが。

 

「ま、まずかぁ!」

 

 孝治はあせった。ここは筋金入りの変態の行動原理。この程度の壁など簡単によじ登り、荒生田は覗きに来るに決まっている。おまけに周りには身(大事な個所)を隠す物が、一切なにもない状況。もしもこれで、本当に荒生田が壁の上部から顔を出したら、孝治は洗面器を投げるかお湯をぶっかけるかして、儚{はかな}い抵抗を試みるしかないだろう。

 

「孝治ぃーーっ! そこで待っちょれぇーーっ! 男やったくせに女湯に入る不届きスケベ野郎は、先輩であるこのオレが成敗しちゃるけねぇーーっ! 裕志ぃ! 桶{おけ}と洗面器とバケツば、ここに集めえーーっ!」

 

「は、はい!」

 

「うわっち!」

 

 最も恐れていた、大方の予測どおりとなった。荒生田は孝治の成敗――をメチャクチャな理由にしての覗き――を決行するため、最悪堂々と、女湯に押しかけようとしているのだ。

 

 まさに自分のことを載せる棚は無限大。たぶん今ごろ、いっしょに入浴していた裕志に桶や洗面器などを壁際高く積み上げさせ、女湯に突入する準備を行なわせているに違いない。

 

 ところが――だった。荒生田のがなり声に、千恵利が過敏に反応した。

 

「あの声! あいつやわぁ!」

 

「うわっち? 先輩ば知っとうと?」

 

「よう知っとんのや!」

 

 千恵利はとまどい気味である孝治に顔も向けず、むしろ声音に怒りをたぎらせていた。

 

「あいつ! あたしのこと『なまくら』やなんて言いはったんやでぇ! これだけは絶対に許せんのやぁ!」

 

「なまくらぁ?」

 

 その単語の意味を孝治にわからせる余裕も与えず、千恵利が境の壁に向かって、いきなりジャンプを決行した。

 

それも全裸のまま、浴場を隔てる境界の壁にドガツンッッと、強烈なる飛び蹴り。とたんに信じられない事態が発生した。

 

 なんと蹴りつけられた部分から、ビッシビシビシビシッと、たちまち亀裂が走りだしたではないか。


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