前のページへ     トップに戻る     次のページへ


『剣遊記番外編V』

第一章  魔術師とカモシカ少女。

     (7)

 美香が故郷の長野県から親友――可奈を慕って、九州までたったひとりで旅をしてきた話は(しかもこのときも、カモシカ姿のままで)、今でも未来亭はおろか、北九州市の巷では大きな語り草となっている。だから美香の姿が森の奥に消えたところで、可奈は軽くつぶやくだけでいた。

 

「まっ、ほんにええずら♡ 今までも心配さして損ばっかしだっただにぃ♡」

 

 それから自分は自分で、着ている黒衣を脱ぎにかかった。

 

 かなり暑い陽{ひ}の盛りに加え、瞳の前には涼しそうな水の流れ――ともなれば、もはや考える頭の中身は、誰もが同じとなるであろう。

 

 つまりが水浴。

 

「一応ここは山ん中だにぃ……誰さも見てねえずらよねぇ……☜☝☞☟」

 

 衣服をすべて脱ぎ終わり、一糸もまとわない格好になってから、可奈は用心深く周辺の森林を見回した。もっともそんな出歯亀野郎がいたとしたら、それこそ有無を言わせず攻撃魔術で吹っ飛ばす腹づもり。だけど幸いにして周辺に、人の気配はなかった。これは出歯亀野郎にとっても、幸いと言える話であろう。

 

 そのように感じて可奈は一応安心したのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「そこに隠れとうのはわかっとうずらぁ!」

 

 ほんのわずかな物音を、女魔術師――可奈は聞き逃さなかった。

 

「はあっ!」

 

 すぐさま全裸のままで、得意の攻撃魔術――火炎弾を、森の茂みに向けてブチかました。

 

 両手の手の平をそろえて、前に突き出す定番のポーズで。

 

 しかもそれこそ、なんのためらいもなし。気配の先に誰がいるかなど、確かめもしないまま。当然火炎弾が命中した場所から、ボワガアアアアアアンンと猛烈極まる爆煙が噴き上がった。

 

 本来、長い詠唱呪文が必要な攻撃魔術である。それをいきなり放つ荒技ができたのは、このような事態もあろうかと、可奈はあらかじめノドの奥で、呪文を口ずさんでいたからだ。

 

 黒衣を脱いでいるときすでに、口の中でぶつぶつと。

 

 これは要するに、自分の安心感でさえ、可奈自身で信用をしていないわけ。

 

「こんただ山ん中まで痴漢さいるなんて、物騒な世の中になっちまったもんずらねぇ〜〜☠」

 

 誰がいったい、世の中で一番物騒な人なのか。これはこの際、棚に上げておこう。それよりも可奈は、してやったりの気分で、煙が燻{くすぶ}る現場へと近づいてみた。

 

 この行動も無論、全裸のままで。そこで可奈は気がついた。

 

「あらまあ、違ったみたいだにぃ☢☠」

 

 辺り一面焼け焦げた樹林の真ん中に、見事にコンガリと焼き上がった巨大ガニ{ジャイアント・クラブ}が一頭転がっていた。

 

 甲羅全体が赤色で、固い体のところどころにトゲのある、丹沢の山の中ではかなり不似合いな存在であるが、まるで巨大ケガニと言った感じか。

 

 もちろん絶命は、一目瞭然の状態。それほどの巨大ガニを目の前にしても、可奈は平然とした気持ちのままでいた。

 

「まあ、ええずら♥ 今晩の飯代が浮いたみたいずらねぇ♡」

 

 大方、水辺に現われた可奈を獲物にしようと、背後から音を立てずに忍び寄ったのであろう。

 

 しかし可奈の聴覚は敏感。これでは巨大ガニのほうこそ、大きな迷惑であったかも。

 

 とにかくこれだけのビッグハンティングをやっておきながら、前述のとおり可奈は、平然としたもの。それよりも今は、当初の目的であった水浴の実行が先決なのだ。なにしろ可奈は先ほどからずっと、裸のままでいるのだから。

 

 すぐに可奈は、バシャッと小川に両足から飛び込んだ。水温はやや、冷たすぎの感じもした。だけど慣れてしまえば、あとは占めたものだった。

 

 可奈はそのままジャブンと、全身を川の中へと沈ませた。


前のページへ     トップに戻る     次のページへ


(C)2014 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system