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『剣遊記番外編V』

第一章  魔術師とカモシカ少女。

     (6)

 コース変更の理由は単純。有名温泉地での宿泊は費用が高くつくのだが、なにもない山だけの丹沢ならば、ほとんど野宿で安く済む――と言うわけ。

 

「美香ぁ〜〜、ちょんこづいて(長野弁で『調子に乗って』)はしゃいじゃ駄目ずらよぉ〜〜☞☛」

 

 可奈は幼なじみを心配して、先ほどから同じ注意を繰り返していた。そのぐらいに野生の血が騒ぐのか、美香は緑の茂る森の中。元気いっぱいに弾み回っていた。

 

 もともとカモシカは、けわしい高山に生息をする、山岳性の哺乳動物なのだ。しかも天性のスプリンガーであり、断崖絶壁の淵であっても、軽々と飛び越える底力を備えている。

 

 だからと言って現在、可奈と美香のふたりで歩みを進めている場所は、一般の旅人にとっては少々難儀な程度の山道で、さすがに目もくらむような山頂と言うわけではなかった。しかしそれでも、美香はうれしそうに辺りをピョンピョンと、今にも遥か遠くまで駆け出しそうなほどの御機嫌ぶりでいた。

 

「しょうがねえずらねぇ〜〜♯ ちっとべぇだけずらよぉ!」

 

 可奈の内なる気分にも、苦笑いが浮かんできた。実際に美香が思いっきりやんちゃな性格なのは、すでに幼少のころから充分に思い知らされていた。しかしカモシカではない人の身である可奈は、美香のあとからとぼとぼと、山道の疲労を全身で感じながらに登っていた。しかも頭全体からかぶるようになっているフード{頭巾}を現在外しているとは言え、全身をすっぽりと覆っている黒衣の身では、炎天下の暑さが非常に堪えていた。これは持続的な冷却魔術を使えば簡単に解決なのだが、それはそれで、精神の疲労に繋がる困った状態となるのだ。

 

「まあ、ええずら♠ ここらでちゃんしてひと休みずらぁ♣」

 

 年齢ばかりのせいではないが(可奈は十九歳)、ようやくの思いで腰を下ろした場所は、名前もわからない小川の上流。

 

「ああ、ごしたい(長野弁で『疲れた』)ずらねぇ☁」

 

 ここは清らかなせせらぎが涼しくて、たとえ疲れていなくても一時の休養をしたくなるような――そんな水の空間だった。

 

「美香ぁ〜〜! あたしここらでひと休みすっからぁ! 山のとんびね(長野弁で『山頂』)まで行ったら駄目ずらよぉ〜〜!」

 

 可奈の呼び声に応えて、一度だけ美香が振り返ってくれた。それから軽いうなずきの仕草を見せ(やっぱりカモシカなので、人間語で返事ができない)、美香はすぐに、森の奥へと駆け出した。

 

「ほんとにだいじょうなんずらかぁ?」

 

 などと、一応心配を口にはしたものの、可奈は美香が山で遭難した経験皆無を、すでに充分熟知済みでいた。

 

「まあ、だいじょうだにぃ♡」


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