『剣遊記番外編V』 第一章 魔術師とカモシカ少女。 (2) このような有様であるから、まさにそのとおり。伯爵を心底から見下している可奈は、そのまま振り返ることすらせず。貴族の邸宅応接間から、黙って出て行こうとした。ところがこんなときになって、屋敷の厨房と聞いていた方角から、突然の金切り声が、可奈の耳まで響いてきた。
「きゃあーーっ! このヤギ、どっからよこはいりしたのよぉーーっ!」
「ええっ! まさかごたしたずらかぁ!」
ヤギと聞いて、可奈には身に覚えがあった。すぐに見送りで応接間の入り口に立っている、今回の仕事依頼人であるはずの癪猪野伯爵を簡単に右手でドンと突き飛ばし、厨房のほうへと全速で駆けつけた。
「邪魔ずらぁ!」
切れ長の瞳を、真ん丸に変形させる思いになって。
それから厨房の惨状を目の当たりにするなり、可奈はへなへなと、その場で腰を落とす顛末となった。
たった今まで見せつけていた、実力のある魔術師の威厳など、まるでどこかへ吹き飛んだかのようにして。
「……美香……おめさぁ……☠」
厨房で、屋敷に雇われている給仕係たちが、慌てふためく中だった。一頭の草食動物が、きょうの料理に使われる予定であったのだろう。ザルやカゴに盛り付けられている野菜――キャベツやトマトなど――に、片っ端からパクついていた。
給仕係のひとりがわめいた。
「いったいこのヤギ、どっから入ってきたんかよぉ! いきなり出てきたって思ったら、大事なお野菜、ドンドンぼっこすごと食べてくれてからぁ!」
その声も耳に入れた可奈は、給仕係たちに向け、今度は本心からすまなそうに頭を下げた。こちらもペコペコと。
「こんねんまくすまんずらぁ☂ それとぉ……こん娘{こ}はヤギではのうて、ニホンカモシカずらぁ……そしてこんでもぉ、ライカンスロープ{獣人}ずらよぉ☁」
厨房の中を流れる時間が、これにて一時の中断となった。 (C)2014 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |