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『剣遊記V』

第一章  怪盗暗躍。

     (10)

 帰るべき肖像画を失い、涼子はなんら為すすべもなし。未来亭の屋根の上で、ただジッと座っているだけでいた。

 

 ここは地上四階建てなので、周囲のどの建物よりも、遥か遠くの景色が見渡せた。それこそ市内の街並みはもちろん、港から大海原の彼方。水平線を航行している船舶までもが、まるで自分の手元に届くかのように。

 

 だけどこんなに素晴らしい風景でさえも、今の涼子の心を慰めてくれる癒しにはならなかった。

 

『……絵がのうなったかて……生きていけんこともなかっちゃけどぉ……やっぱしあの絵がないと……駄目ばい

 

 幽霊として、とんでもないほどの矛盾に満ちたセリフである。しかし、まったく意味がない――と言うわけでもない。なぜなら肖像画は、涼子の生きていた姿を描いた物。具体的に言えば、この世に自分が存在していた事実の、唯一の証しであるからだ。

 

 そのためなのであろう。涼子にとって肖像画という物は、ふつうの幽霊(定義不明)の執着する物とは、思い入れが格段に違っているのだ。

 

『やっぱし、あたし……✊』

 

 ここで新たなる決心が、胸の内に燃え上がったらしい。涼子は屋根の上で立ち上がった。

 

『あたし、やっぱり絶対に、あの絵ば取り戻すっちゃけね! たとえ悪魔の手ば借りたかて!』

 

 このような、大いに目立つ場所での全裸仁王立ちなど、さすがに幽霊でないとできない芸当であろう。とにかく涼子は、固い決意を込めて宣言した。聞き手は誰もいないけど。

 

 また、このような場合、すかさず当の悪魔が現われ、『はぁい♡ これが手を貸す契約書でぇ〜っす♡』などと、ささやきかけてくる事例がふつう。しかしあいにく幽霊は、悪魔の契約資格に、たぶん該当しないのだろう。それらしき危なげな気配は、付近に微塵も感じられなかった。その代わりでもないだろうが、ひょっこりと現われたモノは、一匹の白い三毛猫だった。

 

『あらぁ? こげなとこに猫ぉ?』

 

 鳴き声ひとつ上げなかったので、涼子は唐突な三毛猫の登場に、まったく気づかなかった。もっとも猫のほうも、幽霊の存在や気配など、わかるはずもないだろう。だから平気な顔(?)をして屋根まで上がって来るのも、ある意味において当然。悠々とした足取りで涼子の目前まで歩み寄り、そのまま丸くなって寝ついてしまった。

 

 しかし風景よりも、この三毛猫のあどけない仕草で、涼子は心が慰められる思いがした。

 

 そのお礼のつもりで、そっと右手を差し伸べ、三毛猫の柔らかそうな体を、優しく撫でようともした。

 

 体全体に白と黒と茶色が絶妙に調和をしている、美しい毛並みの猫だった。しかし残念ながら、幽体の身では、三毛猫の体毛の感触を味わうなど不可能。涼子の右手は猫の体をすり抜け、むなしく空をつかむだけの結果となった。

 

『ごめんね☂ あたしが生きとったら、あなたをちゃんと抱いてあげられるんやけどねぇ……☂』

 

 できるものなら本当に、この猫を抱き締めてあげたかった。そんな涼子の耳に、中庭の方向から、聞き慣れた女の子の声が聞こえてきた。

 

「朋子ぉーーっ! 休憩時間の交代じゃけぇ〜〜ん!」

 

 今の声は、給仕係の皿倉桂{さらくら けい}のようだ。

 

 それはまあ、それで良し。だが、桂の声が下から聞こえたとたんだった。なぜか三毛猫がビクンと、四本の足で起き上がった。

 

まさにこのような猫の行動のほうが、涼子には大きな驚きとなった。

 

『ど、どげんして、仕事ん交代で、猫が起きるとぉ?』

 

 疑問を大きく口から出しても、猫が答えるはずもなし。三毛猫は跳ねるようにして、頭の上にいくつもの『?』を浮かべる涼子の体を貫くようにして通り抜けた。

 

それから一目散に、屋根の上から一階下の窓枠まで、一気に飛び降りる。

 

なんとか空中三回転の妙技も披露して。

 

しかしなにしろ、好奇心旺盛の涼子である。こんな変な行動の猫を、ほっておくわけがない。

 

『あの猫……タダの猫じゃないみたいっちゃねぇ♐✐』

 

 早速大きな興味を感じ、すぐに猫のあとを空中から追跡した。


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