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『剣遊記\』

第四章 怒涛の海底探査行。

     (32)

 次から次に襲ってくる触手を巧みに泳いでかわしながら、孝治は巨大ダコのブヨブヨな皮膚に、ブスリと短剣を突き立てた。しかし案の定、やわらかいようでいて、また鉄よりも硬いタコの表皮である。ふつうの短剣ごときでは、まったく効き目はなかった。

 

 何度突いても刺しても、弾力性のある皮膚によって弾かれるだけなのだ。

 

 一方で桂ももちろん、永二郎の危機にタコの触手につかみかかり、全力で引き離そうと悪戦苦闘していた。しかも、武器を所持していない桂の戦い方は、実に健気なものだった。とにかく噛みついたり爪で引っ掻いたり、遮二無二で抗{あらが}うしか、他に方法がないようだ。

 

 ついでだが美奈子は――錦鯉に変身中である彼女はなぜか、孝治の左小脇にかかえられていた。

 

 これは別に、美奈子が孝治の擁護を受けているわけではなかった。美奈子が孝治の胸に飛び込んだとき、そのまましっかりと脇にかかえられてしまった結果と言えた。しかも肝心の孝治は、美奈子を避難させるなど、完全に忘却しきっていた。つまりが左小脇にコイをかかえたままの変な格好で、孝治はタコとの水中戦に夢中となっているわけ。

 

 この状況は美奈子にとっては、とんだトバッチリであろう。これでは逃げたい意思表示もできず、さりとて非力なコイの姿では、孝治の手から強引に離れる手段もない。

 

 そんな一行たちの、奇妙な事情の中だった。巨大ダコは八本の長い触手の内の四本を永二郎の束縛に使い、残りの四本を孝治たちとの応戦に向かわせた。

 

 つまり、水中に浮いた状態。

 

 永二郎は全身の筋肉を全力で活用させ、なんとか触手の戒めから逃れようと、こちらも必死の悪戦苦闘を続けていた。さらにその内の一本にガブリと食らいつき、刃物さえ通用しないタコの表皮を、バリバリと噛みちぎった。

 

 シャチの獰猛な牙は伊達ではないのだ。

 

 それと同時だった。

 

(うわっち! しまったぁーーっ!)

 

 孝治の右足に、タコの触手が絡みついてきた。さらにそのまま、一気に巨大ダコの本体まで引き寄せられた。

 

 タコの本体の裏側には、『からすとんび』と呼ばれる頭足類独特の大きな牙と口がある。もしもそこに飲み込まれたら、すべては一巻の終わり。

 

(うわっち! じょ、冗談やなかぁーーっ!)

 

 一生の結末がタコのエサとは、まさにとんでもない最期。触手に右足を引っ張られながらも、孝治は懸命に海中で手足をジタバタとさせた。このような窮地であるから、孝治は美奈子を手放して脱出させようなど、まったく考えが及ばなかった。そもそも自分がコイを抱いている状況にも、今はまるで気づいていない。その被害者である美奈子は美奈子で、巻き添えは嫌どすえ☠――とばかりに必死になって小脇で暴れまくっていた。だけど頭が真っ白になっている孝治の体のほうは、もはやガチガチに硬まっている状態。けっきょく、もろ巻き添えにしてしまっていた。

 

 それからついに桂までも、緋色の魚体を触手の吸盤で握られた。無論、尾ビレを一生懸命にバタつかせ、必死の抵抗を桂は試みていた。だがこれが、なんの足しにもならないほどの、力の差なのであった。


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