『剣遊記\』 第四章 怒涛の海底探査行。 (30) 船の外では永二郎が、桂と孝治のふたりが船から出てくるのを、ジッと待ち続けてくれていた。
それとついでにもうひとつ。錦鯉の美奈子がなぜか大慌てのご様子で、こちらに向かって泳いできた。
(美奈子さん……なんあげん急いどるんやろっか?)
孝治は不思議に思った。しかし美奈子は魚に変身中なので、その無表情からは、なにもわかることはできなかった。ただし人間に戻ったとしたら、たぶん血相を変えまくっている――そう思えるほどの慌てぶりでいた。
しかもそのままためらいもせず、美奈子は永二郎の右横を泳ぎ抜け(まさにクジラとメダカ)、孝治の裸の胸へと飛び込んできた。
美奈子が変身している錦鯉は、その全長が優に人の半身ぐらいはあった。だからそれほどの巨大魚が飛び込んで――いやいやドスンとぶつかってきたのであるから、孝治としては、たまったものではなかった。
「ぐぁがばぁごぉぉぉぁぁぁっ!」
またもや海中で口を開いてしまい、孝治の声にもならない絶叫が、海底に(たぶん)木霊した。おまけに短剣を再び落としそうになったが、これはすぐに右手で拾って握り直し、危うくなくしてしまう難を免れた。
だが、美奈子の妙な慌てぶりに、どうやら危険を感じたらしい。永二郎もうしろに振り返った。ただし振り返ると表現しても、前述のとおり鯨類――シャチは巨大な体に太い首――と言うより紡錘形の胴体なので、全身を水中で旋回させる動作となった。
それからようやく孝治も気を取り戻し、改めて美奈子が泳いできた先に瞳を向けた。
(な、なんがあったっちゅうとね?)
ところが、それだけを思うのが精いっぱいだった。いきなりシュルルルルルと何本もの赤い色と思える触手が伸びて、孝治の見ている前で、永二郎の体を一瞬にしてグルグル巻きにしてしまったのだ。
(うわっち!)
孝治は美奈子によって受けた衝撃をも瞬時に忘れ、三度目の水中開口をやらかした。しかも、もう慣れていたので、短剣は右手にしっかりと握ったまま。
「ぶぐばぁっちぃ! ごぉべがいいがっごぉぉぉぉっ!」
これではなにを言っているのかわからないので、直訳する。
『うわっちぃ! 巨大ダコ{ジャイアント・オクトパス}が出たっちゃあーーっ!』 (C)2013 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |