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『剣遊記U』

第一章  帰ってくる男。

     (9)

 背後から突然響いた清美の迫力ある声音で、孝治と徳力はそろって、この場で一メートル飛び上がった。

 

 理由は遥か前のほうを進んでいるはずの清美が、いったいどのような歩き方をしたものやら。いつの間にか孝治たちの真後ろに回っていたからだ。

 

「トクぅ〜〜、あんたもしかしてばってん、あたいが地獄耳やっちゅうこつ、よもや忘れちょらんかったろうねぇ〜〜☠」

 

「と、とつけむにゃあ(熊本弁で『とんでもない』)こつです! ボ、ボクはぁ……そのぉ……☠」

 

 姐御のド迫力的熊本弁を前にしては、徳力のか弱い弁解力など、風前の灯火もいいところ。哀れ今夜は半殺しやねぇ――と、ドワーフの不幸を他人事にして、孝治はこの場から、一歩二歩と静かに離れようとした。

 

 ところがどっこい、話の流れは、そうは問屋が卸してくれなかった。清美の目線はしっかりと、このとき孝治にも向けられていたのだ。

 

「ちょい、孝治も待たんね♨」

 

「うわっち!」

 

 本気で逃げようとした寸前だった。孝治は左の肩を、ガッチリとつかまれた。

 

 孝治の心臓は、激しく鼓動を開始。恐る恐るの思いで振り返れば、孝治の左肩を、清美の左手がしっかりとつかんで離さないような体勢。その鬼の形相をしている清美の右の小脇では、首を絞められている徳力が、赤い顔をして苦しそうに喘{あえ}いでいた。

 

「な、なんでしょう……☂☃」

 

 孝治は引きつった愛想笑いを、清美に贈った。無論、この程度の柔和策が通じる状況と相手ではないことなど、最初っから百も承知だった。間髪を入れずして、清美が一気にまくし立てた。

 

「だいたいやねぇ! あたいのこの屈辱は、孝治にも責任がある、っちゅうんだよぉ!」

 

「うわっち! なしてえ!?」

 

「せからしか!♨ もともとから女っぽい顔付きやったっちゅうとに、あたいが旅から帰ってひっさしぶりに会{お}うてみたら、完全な女に化けてやがってよぉ! おかげであたいの立場っちゅうもんがなかろうがぁ! それともそれは、あたいに対する当てつけねえ!」

 

 清美の言い分は、まさに言いがかりの極致。

 

(そ、そげなん……おれの責任やなかっちゃよ……おれかて好きでこげんなったわけやなか⚠ むしろただの、被害者のほうなんやけ……あの魔術師のやね……☠)

 

 などと長い言い訳を、面と向かって返せる気概もなし。孝治は頭をプルプルと、ただ横に振るしかできなかった。無論、いくら首振りを繰り返したところで、清美にブレーキなど、一切なし。

 

「もういっぺん、せからしか! それよかぬしも元男やったら、女みてえに化粧なんかすんじゃなか! 今度からすっぴんで街ば歩きんしゃい!」

 

「うわっち! 痛っ!」

 

 けっきょく言いたい放題ぬかしたあと、清美が孝治の頭にゴチンッと、けっこう効き目のある拳骨{げんこつ}を喰らわしてくれた。さらにそのままのっしのっしと、街道を大股で先へと進んでいく。

 

「いってぇ……☃☃」

 

 この誰が見ても明白な八つ当たりに、孝治は大声で泣き叫びたい気分となった。それでも出るのは、情けない小声による愚痴ばかり。

 

「や、やけん、おれんせいじゃなかっち、言うとろうがぁ……☂☃☂」

 

「ほんなこつ、すまんこってす☠」

 

 一方で首絞めのダメージからなんとか回復したらしい徳力が、孝治にペコペコと頭を下げていた。

 

「そのお気持ち、ボクにもようわかりますばい☁」

 

 それから短い足をフル回転。大急ぎで清美のあとを追い駆けていった。歩幅の違いでなかなか追い着けないのは、もちろんのことだけど。

 

「姐さぁーーん! そげん早よう先に行かんでくださぁーーい!」

 

 しかし徳力の一応謝罪の言葉は、孝治の耳に、微かにしか届いていなかった。それどころか、自分からひたすらに離れていく清美の背中に向かって、次のセリフを投げつけてやりたい気持ちでいっぱいとなっていた。

 

 ただし、二発目の拳骨が怖いから、やっぱり小さな声で、そっと。

 

「馬っ鹿野郎……おれかて好きで化粧なんかしちょるわけじゃなかっちゃけね☠ でも周りがあんまし薦めるもんやけ、しょうがなくやっちょるだけなんやけ……☠」

 

 このとき孝治の回想に浮かんでいる『周り』とは、友美、涼子に加えて未来亭で勤めている、給仕係の女の子たちのことである。彼女たちは女性になった孝治に瞳が慣れるや、すぐに女の子らしいお化粧の実践を始めてくれたのだ。

 

 孝治も初めは、化粧そのものを拒絶していた。だけど、毎日続くお化粧の講釈に、だんだんとその気になってきた。しかも近ごろでは一日のうち、鏡の前に立つ時間の割り合いも、かなりに増えてきたような気もしていた。そのため孝治の清美に対する儚{はかな}い口答えさえも、どこか虚しい響きを、自分自身に感じさせてくれるのだ。

 

「……やけん、文句があるとやったら、店の女ん子たちに言うてほしかばい……☠」

 

 この小声は幸い、今度こそ遠く離れている清美の地獄耳には入らなかったようだ。もっとも聞こえたところで、清美は痛くもかゆくもないだろうけど。だけど友美と涼子には、しっかりと聞かれていた。

 

「孝治ぃ……また清美さんからやられたばいね⛑」

 

『初めていっしょに仕事するとこ見たとやけど、そーとー気性の荒か人やねぇ☻』

 

 ふたりは災難に巻き込まれる事態は御免とばかり、孝治よりも十歩ほどうしろに下っていた。

 

徳力同様、こちらもけっこうズルいおふたりである。

 

 そのズルい涼子が言ってくれた。そもそも幽霊であれば、巻き込まれる危険性など皆無のはずだが。

 

『でも、孝治かて情けないっちゃねぇ☠ しばかれたあとで愚痴ばこぼしたかて、それこそ後の祭りってもんばい☢』

 

「そげんきつかこつ言わんとき⛑ 孝治かて清美さんの恐ろしさば、骨身に沁みてよう知っちょるんやけ……わたしもなんやけどね♠」

 

 友美だけはどうやら、孝治の気持ちをわかってくれていた。

 

「ほんなこつ、そんとおりなんよねぇ〜〜☠」

 

 そんな涼子と友美の言葉を背中で受けながら、孝治は深いため息を吐いた。そのついで、ぼんやりとした気分のまま、街道の空も見上げてみた。

 

 お日様がカンカンに照っていた。


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