『剣遊記T』 第二章 五日前まで男だった。 (14) 孝治、友美、黒崎、勝美の四人が執務室でなんやかんやをしていた間に、時刻は夕方となっていた。
これから未来亭が、最も忙しくなる時間である。店内は昼間以上の騒々しさで、給仕係たちが酒場を右に左に東西南北に、おまけで上へ下へと走り回っていた。
それこそテーブルも椅子も飛び越え、トレイが何枚も宙を飛ぶ慌ただしさ。
「そこの三番テーブル! フライド・スネーク二人前よぉ! それから朋子ぉ! 四階百二十五号室にマンドレイクワインば五本、すぐ持ってってぇ!」
頼りにならない給仕長の熊手は、完全無視。給仕係のリーダーである由香の絶叫が、店内に華々しく木霊していた。そんな戦場的光景を眼下にして、孝治、友美、黒崎の三人が、階段を下りている途中だった。孝治と友美は例の踊り場で立ち止まった。
「あっ、店長、ちょっと待ってください✋」
「どうしたんだがや、友美君」
黒崎も踊り場で足を止めてくれた。同時に孝治は、例の絵を右手で指差した。
「ああ、これんことやね☝」
「うん、これんことなんやけどぉ……☁」
友美も右手で、壁の絵を指差した。自分にそっくりな、少女の肖像画を。
「この新しい絵なんですけどぉ……この絵はいったい、どげんしたとですか? 言うたらなんですけどぉ……わたしによう似とうような気がするんですけどぉ……☂⛑」
「おれもそこんとこば訊きたか♠」
孝治も少女の絵に、改めての興味を募らせた。しかし黒崎は、友美から言われるまで絵について、あまり意識をしていなかったようだ。
「この絵のことかね。なるほど、言われてみりゃー、確かに友美君によー似とるなぁ」
まるで今になって気づいたという感じで、黒崎が肖像画の真正面で立ち止った。それから絵の少女と友美の顔を、ゆっくりと交互にして見比べた。
それからさらに、なぜか遠くを見つめるような目線となり、静かにささやくような口振りで、絵について答えてくれた。
「この絵は三日前に画商で手に入れたんだが、聞いた話によると、なにやら悲しい由来があるらしいがや」
「「悲しい😢由来?」」
孝治と友美の声が、見事に重複した。
「そうだがね」
黒崎が話を続けた。遠くを見るような目線を変えないままで。
「この絵のお嬢さんは、門司に住んどった曽根{そね}男爵の娘さんだがね。門司じゃあけっこう、有名な名家だったんだがなぁ」
「『だった』んですかぁ……⛐」
孝治はすぐに気がついた。黒崎の話が、過去形である言い方に。
「『だった』っちゅうことは、今はおらん、っちゅうことですね☛」
「そのとおりだがや」
続いて黒崎の話の仕方が、これまたしみじみといった感じに変わった。日頃の能面から考えると、非常に珍しいケースといえた。
「このお嬢さんは幼いころから病気がちで、この絵が完成してまもなく亡くなったらしいがや。男爵もひとり娘を失ってから自分も気力を失い、やがて没落したと聞いている。この絵も画商を転々とした末、この未来亭に来たわけだがね」
「可哀想な過去があったんですねぇ☂」
友美が肖像画の真正面に立って、同情気味にささやいた。
「わたしに似とうのは偶然なんでしょうけど、なんだかその分、他人事に思えんみたい……♢♤」
この一方、孝治は孝治で、今度は絵そのものに対する疑問を、黒崎にズバリと尋ねてみた。
「病弱やったっち、ほんなこつ絵に描いたみたいな薄幸話ばいねぇ♐ でもこの娘さん、けっこう元気そうに見える絵なんやけど、これっちおれの気のせいやろっか? けっこうええ服も着とうみたいやし☟」
孝治に貴族階級への反感意識は、特になし。ただ、いかにも大金持ち風に着飾った衣装などが、今になって鼻につきだした――そんな感情がめばえていたのである。
(この子には、別に恨みつらみは無いとやけど、これもおれが女性化した変化なんやろっかねぇ? やっぱだんだんと、そげん風に意識が変わっていくもんなんやろうねぇ〜〜☢)
孝治は頭の中で、ひとり自嘲をした。
そこへまた、突然だった。
『気に入ったっちゃ♡』
「うわっち!」
女の子の声が、いきなり孝治の耳に――いや、頭に直接飛び込んできたのだ。それもなんだか、自分と同年代――かと思えるような、元気溌剌そうな声が。
「な、なんねぇ! 今ん声は!」
自分も声を上げてから、孝治はキョロキョロと周囲を見回した。
「孝治、どうしたがや?」
見ると黒崎は、『おまえ、なに驚いてる?』の顔をしていた。しかし友美のほうは、孝治の心境と同じ感じの驚き顔となっていた。
頭に『?』を浮かべている黒崎は、この際置いておく。それよりも友美が、孝治に尋ねてきた。
「孝治……なんか言うた?」
友美の声は裏返っていた。そんな友美に孝治は、心臓ドキドキ状態で応えてやった。
「そ、それは、おれが訊きたかことやけ☛ おれは……なんも言うとらんけ☃」
もちろん友美は、これで納得をしてくれなかった。
「でもぉ……今急に『気に入ったっちゃ♡』なんち聞こえたとやけどぉ……☁」
「おれも……そんとおりばい♐ お、おれは……友美がそれば言うたっち、思うたとやけどねぇ……でもぉ……☁」
孝治はこのときになって、ひとつの事実に、改めて気がついた。
「今ん声……なんか友美によう似とったばい……☃ 微妙な差があったかもしれんとやけど……☁」
その事実に気づき直した分、孝治は全身に、新たな肌寒さを強く感じた。さらに友美も、顔面に何本もの縦線を走らせていた。
ところがやはりで、黒崎のみ、ふたりの今の状況には、まるで関係なし。見たまんまの、どこ吹く風の顔付きをしていた。
孝治は恐る恐るの思いで、黒崎に尋ねてみた。
「店長……今、なんか聞こえんかったですか?」
「どうしたがや? 青い顔して。まあ、店のほうはにぎやかそうだがね」
孝治と友美、ふたりそろって感じたこと。それが黒崎には、本当に伝わっていない様子でいた。それどころか、すぐにいつものマイペースへと戻っていた。
「さっきの孝治の質問に答えるが、この絵のお嬢さんが元気そうに見えるのは、たぶん画家の気づかいだと思うがね。まさか病気でやつれた顔で描くわけにはいかにゃーからな」
「ま、まあ、そげんところでしょうねぇ……☠」
今ひとつ――いや、これっぽっちも腑に落ちない気持ちのままだった。それでも孝治は一応、黒崎の言葉にうなずいてやった。
(これ以上訊いても無駄ばいね⛔ それよか、こげん奇妙な気分になったんは、女に変わってから初めてっちゃね☢ あっ……男んときからも含めてやった……☀)
そんな内心ビクビクの孝治など、やはり関係なし。黒崎がこの場を締めてくれた。
「それでゃー、きょうはこれでお開きにするがや。僕はまだ店の仕事があるが、孝治と友美君はあしたからの仕事に備えて、さっきも言ったとおり、早く風呂に入ってゆっくり休むがええがや」
「はぁ〜〜い♥」
「お先に失礼しまぁ〜〜す♥」
孝治と友美にとっては、あらゆる問題が山積みとなっている気分のままだった。それでも階段を下りた所で、黒崎はふたりと別れ、一階の厨房のほうに足を向けた。これから熊手や給仕係たちと、いろいろな仕事の打ち合わせがあるのだろう。それもずっと、インチキな名古屋弁でしゃべり続けるのである。ポーカーフェイスの熊手はともかく、他の給仕係の女の子たちは、これに大変な苦労をしているに違いない。
かなり前に聞いた話だが、由香が孝治に、店長のおかしな言葉づかいにはいつも困っとうとよ――と、愚痴をこぼしていたこともあったので。 (C)2010 Tetsuo Matsumoto ,All Rights Reserved. |