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『剣遊記T』

第二章 五日前まで男だった。

     (10)

 孝治の向かう先、酒場の奥の階段左横に、小ぢんまりとしたカウンターがあり。

 

そこは酒場の明るい雰囲気からは切り離され、照明を絞り気味にした、暗い場所でもあった。

 

 だが別に、カウンターは根暗な魔術師の祭壇というわけではない。そこには未来亭の給仕長を務める、赤い蝶ネクタイが目立つ中年男――熊手尚之{くまで なおゆき}氏がいた。

 

 ところが『長』の肩書きこそありながら、熊手はひとりでガラスの食器をみがいてばかり。カウンターの壁一面を占めている食器棚には、綺麗にみがかれているコップや瓶などがズラリ。所狭しと並べられていた。

 

「よう! 熊手さん、今帰ったけね☆ ところで店長、いる?」

 

 熊手の顔を瞳に入れるなり、孝治は早速、気安い調子で声をかけてみた。これも一種の空元気であるが、ブルーな気分を発奮させたい本音も混じっていた。それともうひとつ、熊手の実年齢は孝治よりもずっと上なのだが、言葉づかいに遠慮をしなかった。

 

 それでも一瞬、熊手からギョッとした顔をされた。これも仕方のない現実。しかし熊手が驚く反応を見せたのは、このときだけ。あとはすぐに食器みがきの仕事を、何食わぬ顔で再開させるのみだった。そのついでかアゴでしゃくって、二階の方向を指し示した。

 

 どうやら店長は、二階に在室しているようだ。それがわかっただけでもけっこうなのだが、熊手はこの間、ずっと無言のままでいた。

 

 早い話が『昼行燈{ひるあんどん}』。熊手はカウンターに自分だけの世界を築いて、一日中引きこもっているのだ。

 

 無論、熊手の暗めな性格も、孝治は充分に承知済み。だから少々失礼な振る舞いのようであっても、まったく腹が立たなかった。むしろ周囲から異常に騒がれるよりも、ふだんと変わらない対応をしてくれる熊手のほうが、とてもありがたく感じられていた。

 

「ありがと☺ あとでまた飲みにくるけ、いつものミカンジュースば頼んどくっちゃね♡」

 

 暗い熊手のおかげ(?)で、逆に暗い気分から救われた思いの孝治は、すぐにそのまま、二階へ上がろうとした。ところが熊手が食器みがきの手を止めて、珍しくカウンターから外に出た。

 

「うわっち? 熊手さん、なんしよん?」

 

 そんな風で不思議に思う孝治に、熊手は一切応えなかった。それどころかムスッとした(いつもの)顔付きで、さっさと階段を上がっていった。

 

「変な熊手さんやねぇ、いつも変なんやけど?」

 

 友美もふだんとは違う熊手の行動に、ポカンと口を丸くしていた。

 

「もしかして熊手さん、あれで気ぃ利かせて店長に孝治んこつ、先に報告に行ったんやなかろっか☞ 店長かて孝治の性転換ば見る前に、心ん準備が必要っち思うてやね♠」

 

「やっぱ、そういうこっちゃろうねぇ☁」

 

 腕組みをして考える素振りの友美に、孝治はため息混じりでうなずいた。それからハッと我に返り、孝治も慌てて階段を駆け上がった。

 

「うわっち! おれたちもボケッちしちょる場合やなかばい!」

 

 その途中だった。

 

「うわっち? 誰かおれば見ちょるみたい……?」

 

 孝治は一瞬、訳のわからない悪寒を、背中の脊髄神経に感じた。それがなにかと思って階段の途中で立ち止まり、周囲をキョロキョロと見回した。


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