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『剣遊記Y』

第五章 巌流島の決闘。

     (9)

『ふぁ〜〜あ〜〜☏』

 

 幽霊の分際で、涼子が大きなアクビを連発していた。これは元貴族令嬢として、とてもはしたない行為であろう。だけど孝治と友美以外には見えないその姿であるからして、元より遠慮などなし。そのついでなのか、さっきと同じ小言も繰り返した。

 

『ねえ、ほんなこつ荒生田先輩来るっちゃろっかねぇ……あたしなんだか、信じられんようなってきちゃったんやけど♋』

 

「そ……そげんこつなか……っち思うっちゃけどぉ……☠」

 

 涼子に答える孝治自身、なんだかバツの悪い思いがしていた。

 

確かに荒生田は、いい加減な男であった。それでも先輩は先輩。今までに何度も冒険を伴に行ない、命を助けられたり戦士としての教えを受けたりした過去や経験もあるのだ。

 

 実際、よほどの事態でもない限り、荒生田が闘いを前にして、しっぽを巻いて逃げ出した前科など、過去に一度もなかった。少なくとも孝治の知る範囲では――ついでに例外も、多々あり過ぎるけれど(だから孝治は不安)。

 

「先輩は来る……たぶん来ると思う……来るんやなかろっかな……まっ、ちょっと覚悟ばしとこ……♪」

 

 今回孝治は、成り行きで対戦者板堰の付き人を務めていた。だけどそれでも、先輩後輩の絆を断ち切ったわけではない――そんな思いも胸に同居させていた。だから荒生田を信じて、強がりで涼子に答えはした。しかし、無理な同居で胸の内にうずく葛藤を、孝治はやはり禁じえなかった。

 

(……先輩、ほんなこつ逃げたりしとらんやろうねぇ……♨)

 

『ふぁ〜〜あ〜〜☎』

 

 そんな孝治の気も知らず、涼子が何度目かの大アクビをやらかした。

 

「ふぁ〜〜あ〜〜☏」

 

 摩訶不思議な出来事なのだが、幽霊のアクビが人間である友美にも伝染した。

 

 ここで孝治は、ふと周りを見回してみた。秀正も正男もコックリコックリと、砂浜に体操座りの姿勢で、見事に舟を漕ぎ始めていた。さらに見れば、気を張り詰めているはずの大介でさえも、時々眠たそうに右手で目をこすっていた。

 

 リザードマンは目の構造が、いくらか人間と異なるはずだが、眠りたい動作は共通しているようだった。それはとにかく、ここはやはり、新米の戦士なのであろう。極度の緊張感が、限界に近づいているのかもしれない。

 

「みんな……やっぱし疲れてきたっちゃねぇ……てっ、お、おい、友美ぃ!」

 

 気がつけばアクビをやらかした友美が、丸椅子に座っている孝治の膝に頭を乗せていた。

 

「友美ぃ……寝たらいけんばい♋」

 

 孝治はそっと、友美に声をかけた。だけども自分自身も、このままでは眠ってしまいそうだ。

 

「そげん言うたかてぇ……周りがこげんあったこうなったっちゃけぇ……☺」

 

 それは板堰の左右で燃やされている、焚き火のためであろう。重たそうなまぶたを無理な感じでなんとか開き、瞳を右手でこすりながら、友美が孝治に応えた。それから体を起き上がらせ、海岸のほうへ瞳を移し変えた。

 

「先生も大丈夫やろっか? 周りがこげんあったこうなったっちゃけぇ……☢」

 

 同じセリフを繰り返したので、やはり少々寝ぼけているようだ。孝治も頭が少しボケた気持ちながらも、友美と同じ方向に瞳を向けた。

 

「う〜ん……まあ、大丈夫みたいっちゃねぇ……☁」

 

 孝治と友美のふたりで見つめる板堰の背中は、関門海峡を前景にして、いまだ微動だもしていなかった。これならば孝治たちの心配は、恐らく杞憂となるだけで済みそうだ。

 

『あとは荒生田先輩が、いつ、ほんとに来るかどうかにかかっとうばいね♐』

 

 お終いで涼子がささやいたとおり、最大の問題は、その一点に尽きるだろう。しかもその問題の重要性が半端でない事実を、このあと孝治たちは、嫌と言うほどに思い知らされる破目となるのだ。


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