前のページへ     トップに戻る     次のページへ


『剣遊記Y』

第五章 巌流島の決闘。

     (10)

 巌流島から西。かなり遠く離れた、響灘の海上。

 

 海面にポッカリと、白い小型木製ボートが一隻。釣り人がのんびりと糸を垂らして、優雅に海釣りを楽しんでいた――のだけれど、問題はその釣り人が、荒生田であるという話。

 

「……先輩……もうお昼過ぎちゃいましたよぉ☠ 早よ巌流島に行かんと、皆さん待ってますっちゃよぉ……♋」

 

 もうひとりの乗船者である裕志が先ほどから急かしているのだが、もちろん荒生田は、全然平気な顔。それでも裕志は、先輩には絶対に逆らえない自分を承知のうえで、小言を繰り返している状況である。

 

これはこれでよほどの事態なのだが、やはり荒生田は、まったく動じなかった。それも三日間もお酒を飲みに飲みまくっていながら、血色の良い顔で釣りに熱中していた。

 

「ゆおーーっし! かかった、かかったあ!」

 

 後輩からの催促など、完全馬耳東風である荒生田の釣り竿に、どうやら魚が喰いついたようだ。

 

「裕志ぃ! 玉網{たも}や玉網ぉっ!」

 

「は、はいっ!」

 

 やり慣れない催促をしたところで、そこは荒生田への従属意識が骨の髄はおろかDNAにまで沁み付いている裕志である。すぐに言われたとおり、荒生田が釣り上げた魚の下に、用意していた玉網を差し出した。

 

「なんねぇ☹ ちっちぇえ魚やねぇ☠」

 

 釣れた獲物は中ぐらいのイシダイであった。しかし荒生田は、これ以上の大物を狙っていたらしい。どうも大きさが気に入らないようで、イシダイの口から釣り針を外すと、ポチャンと海に放り返した。

 

 実は荒生田は釣りの始めから、何度も釣っては返し、釣っては返しのキャッチ・アンド・リリースを繰り返していた。

 

「先ぱぁ〜〜い☂」

 

 後輩の嘆きなど、やはり眼中の外。聞く耳さえも、最初{ハナ}っから持ってはいないのだ。

 

 きょうは波もおだやかで、船酔いにはまったく弱い裕志でさえ、今のところは海の上でも平気でいられた。おまけに小型ボートの調達。また、オールを漕いで洋上まで出る苦労も、すべて裕志が先輩から命じられたのである。

 

 これらの苦労は皆、巌流島へ赴くために必要な手段であったから。

 

 それなのに決闘をポカにして、釣り三昧にふけるとは。

 

「せ、先ぱぁ〜〜い☃」

 

 さすがの裕志も、ついに堪忍袋の緒が、今にも切れようかとする寸前だった(もっとも切れたところで、まるで勝ち目はないのだけれど😭)。荒生田が釣り竿をボートに上げ、きっぱりと言い切った。

 

その言葉で、裕志はコケた。

 

「ここには大物がおらんけ、もっと沖までボートば出しんしゃい! オレはネッシーみたいな超大物が釣りたかと!」

 

「それはイギリススコットランドネス湖特産ですっちゃよ……って、それ以前の問題ですっちゃよ♋」


前のページへ     トップに戻る     次のページへ


(C)2012 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system