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『剣遊記Y』

第五章 巌流島の決闘。

     (2)

 決闘が正式に決まって以来、板堰は未来亭の四階四百十二号室に、こもりっきりの二日間を過ごしていた。

 

 もちろん食事や入浴のときだけは姿を現わすが、それ以外は完全に人との接触をシャットアウトする日々であった。

 

 このような剣豪の姿勢を見て、彼の戦意に疑問を抱く者たちも、ぽつぽつと現われ始めていた。しかし板堰自身はなんと言われようと、まったく構わない主義を貫き通していた。

 

 そんな板堰が、きょうも部屋の中にひとり――訂正しよう。板堰ともうひとりが部屋の中にいて、ジッと静まり返っての瞑想を行なっていた。

 

「……きょうで何日じゃ✍」

 

 床の上で胡坐{あぐら}を組み、両目を閉じての瞑目――いわゆる坐禅の姿勢を取っている板堰が、同室者に淡々とした口調で尋ねた。実際板堰が口を開く行為は一日のうちで、このときぐらいなものだった。

 

「闘いが決まりはってから、きょうで二日目やねんな☄ 街じゃあ守はんが逃げたやなんて、けったいな噂を立てようアホなおっさんも出始めようみたいなんやけどね☻」

 

 問いに答えた同室者は女性。金髪の魔神――千恵利である。

 

 彼女の返答に、板堰は両目を閉じたまま、口の右端に笑みを浮かべた。

 

「逃げるのぉ……ほんとーにそれができるんじゃったら、ちーとはわしの気も休まるんじゃがのぉ……」

 

「でも守はんは、絶対そないなやんぺな真似、せえへんわよねぇ☺」

 

「それはわからんのぉ☹ わしもただの弱い人間じゃけん☻」

 

「ほんま弱い人間ねぇ……そりゃあたしみたいな魔神と比べはったらそうなんやけど、そこがあたしが守はんを好きになった理由やさかいになぁ〜〜♡」

 

 千恵利もふっと笑みを浮かべ、甘える仕草で瞑目中である板堰の背中に、そっとしな垂れかかる。

 

「守はんって、いつもそうやって自分の弱さをさらけ出してばかりでおまんのやけぇ☺ たまには嘘でもええさかい、カッコええとこ見せてんかぁ☻」

 

「すまんのぉ✊ わしゃあカッコ悪い男じゃけん、そんなことはたぶん、一生言えんけー☻」

 

「なら、あたしんことは言えはるの?」

 

「…………」

 

 千恵利の二度目の問いに、板堰は無言の返答だった。だけども千恵利はがっかりするわけでもなく、板堰を背中から、そっと優しく抱きしめた。

 

それからしばらく無言を続けたのち、ようやく剣豪が口を開いた。

 

「やっぱりすまんのぉ✁ 千恵利には本とーに感謝しとるけー✋ こんな在り来たりな言葉やのーて、もっと千恵利を喜ばすことを言いてーんじゃが……わしにはどーしてもわからんのじゃ☹ これも脇目も振らずに剣一本だけに全力をかけてきた、これは報いかもしれんのぉ☁」

 

 千恵利も口の右端に、ふっとした笑みを浮かべた。

 

「ええんや☺ 言葉ななんかよう要らんさかい☻ それに守はんが剣の世界で生きておらんかったら、あたしとの出会いもなかったはずやねんな♥」

 

「……そうじゃったな、ふふ……☺」

 

 剣豪は自分でも気づかないまま、過去を思い出して微笑んだ。

 

「ねえ、あしたの試合、あたしもいっしょに守はんのそばにおりたいんやけど……♥」

 

 続く千恵利の懇願には、たった今までの悩ましさが失せ、今度は逆にねだるような要素が含まれていた。しかし板堰は、表情から柔和だった笑みを消し、正反対の頑なな口調で返してきた。

 

「そりゃー駄目じゃ✄ あしたの決闘はあくまでも試合じゃけぇ、敵を斬る戦{いくさ}じゃねえ⚔ じゃけんあしたは剣じゃのうて木刀を使うつもりじゃ☞」

 

 それでもなお、千恵利は板堰にすがりつく。

 

「そやけどぉ……ついてるだけやったら、ええんでしょ☻」

 

 これに板堰は、ややためらった感じで言葉を返した。

 

「……それは確かじゃが……ついてるだけじゃったらな✊ その代わり、いっせーの手出しは無用じゃけん☹」

 

「……それでもええ……約束する……✎」

 

 旅を伴にして以来、時として千恵利が板堰から受ける、やわらかなる拒絶――それでも良かった。どんな闘いのときでも、千恵利は守のそばにいたい。

 

 ただ、それだけなのだから。


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