『剣遊記\』 第一章 岸壁の給仕係。 (8) 初めはずいぶん騒がしい客が来たっちゃねぇ――と、孝治は思っていた。ところが声の方向に振り向いて、扉の前に立っている人物を見てから、正直孝治を含めてみんながみんな、たまげた顔となった。
「桂っ! 桂やない!」
中でも由香が、最も高い驚きの声を上げたとおり。給仕係の制服とエプロンを着用している桂が、両方の瞳から涙を流して立ち尽くしていた――と思う間もなくだった。
「うわああああああああああんんん!」
本当に大声を出して泣き始め、バタバタと店内へ駆け込んで、そのまま由香の胸に飛びついた。
この突然の珍事に、周りの給仕係や客たちもビックリ。全員が丸い目となって、桂と由香に注目した。
「お、おい……桂!」
このとき孝治は、桂が泣きながら胸に飛び込む者は、由香に続いて次はおれの番ちゃね――と、根拠もなしに都合の良い展開を考えていた。
(ようわからんちゃけど、カッコつけるええチャンスばい☺)
ところがちょうどだった。二階から店長の黒崎が、勝美といっしょに階段を下りてきた。すぐに黒崎は、泣きわめく桂に気づいて声をかけた。
「桂じゃにゃあかぁ。どぎゃんしたがね、そんなに泣いて。永二郎といっしょじゃなかったがやか?」
「店長ぉーーっ!☂」
桂はすぐに由香から離れ、孝治の右横を素通り。まっすぐ階段を下りた黒崎にすがりついた。両手を広げて待ち構えていた孝治は、完全の眼中の外だった。
「ど、どがんしたと? 桂ちゃん☞」
勝美もすっかり、瞳が点の有り様。背中の羽根をパタパタさせて、黒崎と桂の周りを飛んでいた。この一方で孝治は、すっかりソデにされた格好。
「……お、おれは、なんやっちゅうとや?」
もう体裁の悪い思いでいっぱい。そんな女戦士(?)に一切構わず、同僚の給仕係たちが、桂と黒崎の周りに集まった。
「ど、どげんしたとにゃん? 桂……急ににゃきだしてにゃあ……♾」
夜宮朋子{よみや ともこ}も、とても心配そうな顔になっていた。ともかくこれにて、店の業務は、一時中断の状態。熊手だけが自分の世界であるカウンターにて、コップを黙々と磨いていた。それはとにかく、黒崎は泣きわめく桂の両肩を自分の両手で抑え、静かな口調で理由を尋ねた。
「まあ、落ち着くがや……と言っても、今は無理みたいだな。いいか、深呼吸をして、それからゆっくり答えてほしいがや。いったいなにが起こったんだがね?」
「ふ、ふ、ふ、船がぁ……☃」
桂も理由が言いたくて、たまらなそうだった。しかし、ノドが嗚咽を繰り返してばかりなものだから、なかなかハッキリと声に出せない感じでいた。
「船? 永二郎の船に、なにがあったんだ?」
黒崎の再度の問いかけに、涙が止まらないながらも、桂はいったん息を鎮めた。それから今度は、思いっきりのような大声を上げた。
「永二郎さんの船がこーわいせんとぉーーっ!」(注 伊予弁で『帰ってこない』) (C)2013 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |