『剣遊記\』 第一章 岸壁の給仕係。 (14) 潮を吹き上げているということは、永二郎は現在、シャチの姿に変身中でいるのだろう。
海のライカンスロープ{獣人}――ワーオルカにとって、船乗りとはいかにも打ってつけの職業――などと、今はそんな呑気な戯言{ざれごと}を言っている場合ではない。そもそもどうして、第五開陽丸で帰るはずの永二郎が、たったひとりでシャチに変身をして戻ってきたのか。すべては彼が陸上に上がるまで、理由不明の話なのだ。
それはとにかく、孝治の右隣りにいる友美が、最初に永二郎の異常に気がついた。
「見てん! ちょっと様子が変っちゃよ! 永二郎くんの泳ぎ方が、いつもんよか遅いっち思わんね! ふつうやったらもっと速よう泳いで、ここまであっと言う間に来れるっちゃにぃ!」
「うわっち! ほんなこつぅ?」
こうなれば、思い立ってからの行動も、友美は孝治よりも早かった。
「わたし、見てくるっちゃけ!」
すぐに友美は浮遊の魔術で自分の体を宙に浮かせ、まだ沖のほうにいる永二郎の元へと我が身を飛翔させた。無論、今の友美のセリフを耳に入れたであろう桂が、ジッと我慢など、できようはずがなかった。
「あたしも行くぞなぁ!」
とにかく大声で叫ぶなり、給仕係の制服のままドッボオオオオオオンンと、岸壁の上より頭からの海面ダイビングを決めてくれた。
「うわっち! お、おい! 桂っ!」
孝治はもちろんであるが、桂の急な行動に慌てまくった。しかし孝治の発した次のセリフで、なぜかうしろにいる涼子のほうがズリこけた。
「泳ぐとやったら服ば脱いで行かんねぇ! それにここの海って、下水が混じってけっこう汚ないっちゃけねぇ!」
『そげな問題やなかでしょう!』
すぐに立ち直った涼子が、立腹して息巻いた。それでも孝治は、シレッとした態度を貫いてやった。
「よかっちゃけ☀ 桂の場合やったら、そげな問題なんやけね☺」
ここでも涼子の瞳が点となった。
『なんね、それ?』
「ほらぁ、つまらんこつば言いよう間に、桂も永二郎も帰ってきたっちゃよ☞」
『えっ?』
孝治は『つまらんこつ』などと称したが、桂はその短い時間の間に、早くも永二郎の元まで泳ぎ着いていた。しかも、もう孝治たちの所まで戻ってもいたのだ。
「孝治っ! ドエラかそーとー大変ばい!」
友美もすぐに、浮遊で孝治の前まで戻って、ペタンと岸壁に着地した。孝治は真面目な気持ちで尋ね返した。
「いったいなんがあったとや!」
「永二郎くんの背中、銛{もり}が何本も刺さっちょうと!」
「うわっちぃーーっ!」
『きゃあーーっ!』
友美に言われて孝治と涼子は、岸壁の上から海面上にいる永二郎と桂を覗き見た。
孝治たち三人にとって、ひさしぶりに拝見をするシャチに変身中の永二郎が、そこにいた。まさに白と黒のツートンカラーで塗り分けられている、巨大な海のハンター――キラーホエールことシャチが。
その勇猛そうな体格に反比例をして、両目のうしろにある白斑が、逆に愛嬌じみてもいた。
もちろん今は、能天気に観察などをしている場合ではなかった。永二郎の背中には友美が言ったとおり、三本もの銛が、見事に深々と突き刺さっていた。
『ひ、ひどかぁ!』
そのあまりのむごさに、涼子が瞳を背けていた。
どこで誰に刺されたかはわからないが、それでも永二郎は背中に銛を突き刺したまま、海を泳ぎ続けてきたのだろうか。シャチの分厚い皮下脂肪が致命傷から命を救ったのだろうけど、それにしても、重傷であることに変わりはない。
そんな永二郎の巨大な紡錘形の体の右脇で、上半身だけ制服を着たままの桂が波間で漂いながら、一生懸命シャチに身を寄せていた。
「永二郎さん! 帰ってきたんよ! 北九州に! ほやけんあたしん所にぃ!」
ところで不謹慎かもしれないが、このとき涼子の瞳はむしろ、シャチよりも桂の下半身のほうに向いていた。それも驚きが倍加されているような感じで。
『桂って……♾』
孝治は涼子の驚きの意味が、簡単に理解できた。
「まっ、無理なかっちゃね☛ 涼子は初めてなんやけ☻ 見るんは✍」
しかし涼子は、孝治のセリフにも気がつかないかのように、同じ言葉を繰り返した。
『桂って……✋』
制服のスカートとエプロン――それに一番大事なパンティまでが、もはやどこかに流されて、わからなくなっていた。だけど、それでも今の桂には、まったく差し支えはなさそうだった。いやむしろ、逆に自由を得て伸び伸びとしている――そのような感じの姿。
なぜなら桂の下半身は、緋色の鱗に覆われた流線型へと変わっていたからだ。さらに桂の足の先――いや、もう足は存在していなかった。それよりも先端には、完全に魚類そのものの尾ビレが開花をしていた。
ずいぶんと長い間、桂の正体を不思議がっていた涼子は、この思わぬ所で解答を得たわけ――となった。そんな理由で涼子は再び大声で(ワンパターンだけど、孝治と友美にしか聞こえない)、以前永二郎に向かって叫んだセリフと同じ驚きを繰り返した。
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