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『剣遊記Z』

第五章 美女とヒュドラーと白鳥と。

     (9)

 中原が孝治たちを連れてきた場所は、山口県の中央部に位置をする、豊田湖という名称の、美しい湖の湖畔だった。

 

 一行は萩市に向かう途中で、一度湖の横を素通りしたらしかった。だけど悪霊退治の方策ばかりを考えていた孝治は、この湖に関する記憶が、ほとんど残っていなかった。

 

 少し大きめな池の横を、さっさと通り過ぎた――その程度の印象しかなかったのだ。

 

 もっともその辺の事情など、中原には関係なしであろう。自称画家の男は、早くも写生の準備に取りかかっていた。

 

「で、おれはどげんすりゃよかっちわけ?」

 

 半分――もといほとんどイヤイヤ顔のつもりで尋ねる孝治は、すでに鎧も下着も、すべて脱ぎ終わったあと。真っ裸で大事な二個所(?)を両手で隠しつつ、湖の水辺で立ち尽くしていた。

 

 右手で胸を。左手で下を隠した体勢――なので、もしもこんなときに怪物に襲われでもしたら、それこそひとたまりもないに違いない、完全無防備の最悪状態である。

 

 要するに孝治は、心底から中原に観念しきっているのだ。

 

 無論そのような孝治の心境も、中原は一切関知しなかった。彼は全裸の孝治を前にしても、その目にはまるで好色の気配はなし。職業画家に徹したアドバイスを、孝治に向けて行なった。

 

「君は湖に膝まで入って、まっすぐ向こう側の景色ば見よったらよかやけ☞ おれには背中ば向けるわけやけど、今回おれが構想しちょるんは『水辺に佇{たたず}む裸婦』っちゅう感じやけ、それでよか✍」

 

「ほんなこつ、それでよかっちゃね?」

 

 真正面から裸を描かれるわけではないと知って、孝治は安堵ととまどいを混ぜこぜにした気分になった。しかしこれにも中原は、終始淡々で答えてくれた。

 

「ほんなこつや✍ 君ば決して侮辱するっちゅうわけやなかとやけど、おれは君の後ろ姿に魅力ば感じたもんやけねぇ〜〜✎」

 

「良かったぁ〜〜♥」

 

 続いての孝治のほっとひと息は、完ぺきに安堵の吐息となっていた。

 

 絵画に描かれる以上は、完成品がいつまでも中原の手元に置かれているはずはないだろう。いずれは中原の元から離れ、画商や美術館などを転々としているうちに、多くの人たちの目に留まる。その中に孝治の知り合いがもしもいて、あとでからかわれたりしたらどげんしよ――孝治はそのような、しょーもない心配をしていたのだ。

 

 その点背中だけなら、誰がモデルかはわからない。だからその心配は杞憂となる。

 

「じゃあ、さっさと描いて終わらせちゃってや♐」

 

 心配事のひとつが解消された格好。少しだけ気が楽になった孝治は、ジャブジャブと水の中に入った。

 

「うわっち! 冷たかぁ!」

 

 豊田湖の水温は、考えていた以上に低かった。まるで両ひざから下の感覚が、たちまち麻痺していくかのようだ。

 

 孝治は歯をガチガチと鳴らしながら、中原に振り返って窮状を訴えた。

 

「あ、あのぉ……水がとっても冷たかなんですけどぉ……☃」

 

 しかし中原の返答は、いつもの平静そのもの。

 

「ああ、もう秋も深いけねぇ〜〜♠ やけん見るったい☜ 周りの山も緑から紅葉に変わりよろうが✑✒ まさに芸術には持ってこいの季節ばい✐」

 

「そげな問題やなか!」

 

「しぇからしか! ジッとしとらんねぇ!」

 

「うわっち!」

 

 思わず叫んだ孝治の足元で、大きな水しぶきがバシャッと跳ね上がった。

 

 突如中原が、拳骨大の石ころを投げたのだ。

 

「おれの指示があるまで、おまえは静かするったい! 芸術の邪魔するもんやなか!」

 

「そん前に、そこにある石ころは、いったいいつん間にそげん集めたっちゃね!」

 

 度肝を抜かれながらも、孝治は右手で中原の足元を指差した。『君』が『おまえ』にいつの間にか変わっているなど、問題の外。おまけに胸を堂々と見られるくらい、とっくに構わない心境だった(左手は下の部分を、しっかりと隠している)。その孝治の右手人差し指の先――中原の足元には、今投げた物と同じ大きさの石ころが、何十個も積まれていた。

 

「こげなん、どげんでもよかろうがぁ!」

 

 二個目の石が、ザバシャッと飛んできた。

 

「うわっち! は、はい!」

 

 そのあまりのド迫力で、孝治は瞬時に直立不動の姿勢となった。そんな孝治の左の耳に涼子がそっと寄り、静かにささやきかけてきた。

 

『こげんなったら、もう覚悟ばするしかなかっちゃね☻ きょうだけの我慢なんやけ☠』

 

 このような事態を招いた原因の一端は、明らかに涼子にあった。それがわかっていながら、もはやそれを指摘するどころではなし。孝治は無言でコクリとうなずくしかなかった。


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