『剣遊記Z』 第五章 美女とヒュドラーと白鳥と。 (10) 豊田湖の周辺には村落がなく、湖の向こう岸にも人影は一切なかった。
だからこそ、ヌードの写生には打ってつけの場所であろう。従って孝治は誰にも気兼ねする必要もなく(ほんとけ?)、堂々と裸でいられるのだ(だから、ほんとけ?)
今現在この場所にいる者は、孝治と中原以外では、友美と涼子と徹哉。それから白鳥の姿をしている美奈子と、弟子の千秋・千夏がいた。
これらのメンバーが全員、滅多に見られるチャンスの少ない絵画の写生風景を、興味しんしんで見物していた。そのうちに中原がなにやら両腕を組み、頭をひねってうなり始めた。
「う〜〜ん……☁」
「なん悩みよんね?」
「しぇからしかぁ!」
「うわっち!」
孝治の足元に、またもやボチャッと、水しぶきが上がった。
「おまえは黙って立っちょれ!」
「はいっ!」
中原から怒鳴られ、孝治は再び硬直した。
『これってちょっと、友美ちゃんが悩みの原因ば訊いたほうがええんとちゃう?』
「そうっちゃねぇ……☹」
見かねた涼子から勧められた格好で、友美が恐る恐る中原の近くに寄った。彼がうなっている理由を尋ねるために。
「あのぉ……なんかご不満な点でもあるとですか?」
「……不満けぇ……✈」
相手が女の子であれば、なぜか癇癪を起こさない中原であった(あれ? それじゃ孝治はどうなるの?)。
「どうも……なんち言うたらええのかぁ……後ろ姿にもっと訴えるモンがほしかぁ〜〜っち思いようと✍ なんかええアイデアでもなかろうかねぇ♋」
(けっ! なぁ〜〜んが後ろ姿で訴えるっちゃね!)
口に出したら、また石を投げられるに決まっている。だから孝治は向こう岸を向いたままで、ちっと舌打ちを繰り返した。
「そうたい! こげんしよう!」
孝治の内心など知る由もない中原が、草むらに目を向けてパチンと両手を打った。
「そこに咲いちょう花ば、彼女に持たせてや✌ 『湖畔に佇む花を持つ美女』……うん、これで行くばい!」
「でも中原さんが描いてるのは後ろ姿ですっちゃよ☞ 花ば持ったって、意味なんかなかっち思うっちゃですけどぉ……☁」
友美のもっともな疑問であるが、中原はこれにも簡潔明瞭に答えてくれた。
「そこはおれの画力で、背中だけで表現してみせるったい✌ やけんそん花ば、彼女に渡してや✈」
「はい……?」
なんだか釈然としない顔付きの友美であった。だけどもここは、これ以上口答えをしているわけにはいかないだろう。中原から言われたとおり、友美は水辺の草むらに生えている紫色をした花(のちほど図鑑で調べたら、『サワギキョウ〈キキョウ科〉』らしかった)を三本ほど摘んで、孝治に手渡そうとした。
ところが孝治は、なぜか微動だもしなかった。変に思った友美が顔を覗いてみると、すぐに原因がわかった。
「あらやだ♋ 孝治ったら寝ちょうばい☛」
絵のモデルが立ったまま、器用にも眠りについて舟を漕いでいたのだ。
このようなことができる孝治は、ある意味において、かなりの大物といえるかも。しかし、当然ながら、中原は激高した。
「ぶぁっかもぉーーん! 寝るんやなかぁーーっ!」
たちまち石ころの三連投。バシャアーーンッ! ドボォーーンッ! ビッシャアーーンッ! と喰らってしまい、瞳が覚めた孝治は驚きのあまり、水面から一気に三メートルも飛び上がった(誇張あり)。
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