『剣遊記]』 第二章 薔薇と愛妻の秘密。 (19) 「入りたまえ」
黒崎がノックに返事をした。すぐにドアが遠慮がちに静かに開かれ、未来亭給仕係の制服(色は緑基調)を着用した女の子が入ってきた。ただし、孝治と友美と涼子。さらには秀正も見覚えがないと言える、新人の娘であった。
彼女は黒い髪を長めに背中まで伸ばしているが、その素振りはどこかおどおどとしていて、なんだかとても落ち着きがなさそうな様子でいた。
「店長、こん娘{こ}……新入社員ですか?」
新人給仕係の顔をちらちらと眺めながら、孝治は黒崎に尋ねてみた。しかしその返答よりも前に、可奈が溌剌とした笑顔になっていた。
「美香ぁっ! とっても似合うずらよぉ♡ そんええ格好だにぃ♡」
さらに新人給仕係――美香とやらを自分の元へと呼び寄せ、トドメでしっかりと抱きついたりもした。
これには店長以外の全員、驚天動地のたまげ顔。初めて拝見する、ワーシーローだった美香の、人間形態{バージョン}に注目した。
「ええーーっ!」
「こん娘{こ}がニホンカモシカやった美香ちゃんっちゅうとぉ?」
素っ頓狂は承知のうえ。友美と孝治はそろって、高めの声を張り上げた。これに黒崎が、いつもの澄まし顔で答えてくれた。
「そうだがや。可奈君の紹介で、きょうから当店で働いてもらうことになったんだがね。孝治たちとはもう顔を会わせてあると思うが、とにかく仲良くやってほしいがや」
「確かに顔ば会わせてますっちゃけどぉ……♋」
孝治は困惑しきった思いで、人間形態でいる美香を、改めて見つめ直した。
「ただぁ……人ん姿で会うんは、今が初めてなんよねぇ〜〜☁☂☃」
ニホンカモシカの美香であれば、今朝方とっくに初顔合わせ済みでいた。ところが彼女が人になると、意外だと言えば失礼なのだが、けっこう可愛い容姿端麗ぶりであったのだ。
そのいかにも田舎の育ちといった感じである、純朴そうな黒い瞳。さらに表現を付け加えれば、実に初々しそうな印象を、美香は執務室内に振り撒いていた。
「へぇ〜〜♡ なかなか可愛か娘さんやねぇ♡ あとでくわしゅう、おれにも紹介するっちゃよ♡」
自分の愛妻が危機に陥っているという最中なのに、早くも浮気の虫が騒ぎ始めたらしい。秀正が孝治の左耳に、こそっと小声で話しかけてきた。
「……ったくぅ、バチ当たりなやっちゃねぇ〜〜☠」
秀正の悪行には孝治も、思わずの呆れ気分となっていた。
それはさて置きである。
「へえ美香、しょうしい(長野弁で『恥ずかしい』)しとらんで、みんなに挨拶するずらよ♡」
親友の可奈から背中を押され、新人給仕係の美香が、恐る恐るを感じさせるような動作で、ペコリと一同に向けて頭を下げた。
「ど……どうも、おいだれさんら……よろしゅうお願い……するずらぁ♥」
ものすごく聞き取りにくい、小さ過ぎる声だった。これに可奈が、ふだんの彼女らしくもなく、まったく申し訳なさそうな姿勢(頭をペコペコ)での言い訳をしてくれた。
「ごめんずら☁ 美香っだらよぉ、人ん姿になったら、すっごい小心者になっちまうんだにぃ☂」
「そう言うことだがや。僕からもよろしく頼む」
「はぁ〜〜い♥」
「はぁ〜〜い♥」
黒崎の締め言葉に、孝治と友美はそろっての生返事を戻してやった。実際、未来亭にいろいろな人々が集まるシチュエーションは、毎度毎度の定番。孝治も友美も、今さら取り立てて騒ぐ気にもなれんちゃねぇ――と言ったところなのだ。 (C)2014 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |