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『剣遊記 番外編Y』

第五章 人生楽ありゃ苦もあるさ。

     (13)

 ところでこれほどの大騒動を耳に入れたら、大抵の者はたとえ深い眠りの中にあっても、いっぺんで目を覚ますはず。

 

「……あれぇ?」

 

 家中に響き渡る怒声(律子)と悲鳴(秀正)のおかげで、秋恵はトロンとした気分でふらりと、うつ伏せの姿勢から半身起き上がった。もちろんすぐに気がついた。

 

「あらきゃーまぐったぁ……あたしったら裸んまんまで寝とったみたいばいねぇ☻」

 

 『みたいばい☻』もなにも、本当に全裸で寝ていたのだが、その理由は秋恵自身で知っていた。

 

 祭子の前で桃色のピンクボールに変身。それから自己分裂で最後にはおもちゃの粘土になって、祭子の喜ぶまま、いいように扱い回されていたのだ。

 

 そのあとようやく、祭子が遊び疲れて眠りについてから、秋恵もバラバラになっていた自分の体を集結。

 

 元の人型に戻っていた。

 

 同時に祭子の睡眠が伝染したらしい。強烈な睡魔が襲いかかり、服を着る手間すらも面倒になったわけ。

 

「よかばい、こんまんま寝ちゃお☘☙」

 

 けっきょく裸のまま、祭子の横で昼寝をしていたのだ。地球の温暖化とは無関係だけど、きょうが比較的暖かい日だった状況も幸いした。

 

 このように呑気極まる秋恵の瞳の前。幼い祭子が両親の大ゲンカの最中にありながらも、まったくの関係なし。すやすやと静かに寝息を立てていた。これは日頃から秀正と律子のふたりで騒動を繰り返しているので、今ではすっかり慣れの境地に達しているからであろう。まだ赤ん坊なのに、末頼もしい剛毅{ごうき}さとは言えないだろうか。

 

 もっとも秋恵は、そのような事情など知るよしもなし。

 

「うふっ♡ 可愛かぁ♡♪」

 

 秋恵は赤ん坊の無垢な寝顔に、ただうっとりと見とれているだけ。それから自分の右手を開いて、今の今まで無意識で握っていた物を、改めてなにかをなつかしむような気持ちで見つめ直してみた。

 

 手の平には一個の小さなネジがあった。

 

 平尾台の古城で、なんとなしに拾っていたネジが。

 

 そのネジをなぜ今まで捨てもせず、大事に身に付けていたのか。秋恵自身にも理由はわからなかった。

 

 ただこのネジを持ち続けていたら、またあの人に会えるかもしれんばい――との思い。ただそれだけ。

 

 そんなたった一個の小さなネジに、秋恵は微笑みながらで、これまた小さなひと言をつぶやいた。

 

「うふっ♡ またよんにゅ会いましょうばいね、徹哉くん♡ 長い人生楽あれば苦あり、ってね♪ これってあたしが、いっちゃん好いとう言葉なんよねぇ☺」

 

 少女の胸の内にあるひとつの、特別な感情がめばえ始めていた。


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