『剣遊記X』 第二章 許嫁と玉の輿。 (10) しかし壁に叩きつけられる寸前だった。由香の体が瞬時にして、透明な水に変化。バッシャアアアアアアアアアアンンンと激しく、壁と床の板の間にぶち撒けられた。
「うわっちぃ! やっちまったばぁい……☂」
孝治はもはや、事態の悪化が止められなくなった状況を悟った。こうなればこそこそと、テーブルの下に隠れるのみ。ついでに裕志は、情けない悲鳴を上げていた。
「うわあーーっ! 由香ぁーーっ!」
さらに桂を始め、給仕係の面々も、騒ぎに気がついたらしい。大慌てで現場に駆けつけてきた。
「きゃっ! がいにー音! なにが始まったのよぉ!」
そんな彼女たちの前で、美奈子はふふんと、鼻を鳴らすだけの態度を示していた。
「おやまあ、ほんに他愛のないことどすえ☠ 風船よりもあっけのう吹っ飛ぶやなんてねぇ♪」
もちろん美奈子は、由香がウンディーネであることを、先刻承知済みでいた。未来亭に長く住んでいればそれくらいの話など、いつでも耳に入るもの。だからこそ一般人にぶつけたら、それこそ全身打撲ものである『衝撃波』をなんの遠慮もためらいもなく、由香にお見舞いできたのであろう。
だけども当然、由香もこのままやられっぱなしではいなかった。
床に広がっている水溜まりから、水滴がビュンビュンと宙に跳ね上がった。さらにその水滴が空中にて集結。たちまち凝固して人型の彫像となり、すぐに元の由香の姿となった。
「やったっちゃねぇーーっ! これはお返しったぁーーい!」
体になんのダメージを受けた様子もなし。由香が叫んで、勢いよく両手を振り上げた。とたんにテーブルの上にあった孝治たちのジュースが、コップの中から噴水のように発射された。
「うわっち!」
「こら、なんやねん!」
孝治と千秋が同時に声を上げた。ウンディーネである由香は、身近にある液体ならなんでも、自由に操作が可能。もちろんコップから噴き出したリンゴとミカンのジュースは美奈子の顔面へ、まともにバシャッとぶっかかった。
「どげんね! 思い知ったでしょ!」
お返しにしては、非常にセコいかたちであった。それでもとにかく、由香が魔術師に一矢を報いた格好。なお、どうでも良い話ではあるが(どうでも良くないか☠)、由香は怒り心頭で、頭に血が昇りきっているらしい。自分が服を着ていないことを、見事に見失っているようだ。おかげで彼氏である裕志が、鼻血を噴いてぶっ倒れている事態にも、まったく気づいてはいなかった。
無論話は、それどころではなし。
「お、おやりになりはったわねぇーーっ!」
日頃の高貴さと気高さすらも、今や完全にかなぐり捨てていた。とにかく美奈子も、心の奥底からさらに輪をかけて激高した模様。だから当然、攻撃魔術の連打が始まった。
「火炎弾っ! 冷凍波っ! 烈風界っ!」
おまけに由香も、今度は本気だった。
「そげなんなんねえ! 水の壁ぇっ!」
水源がどこにあるかなど、考える努力も馬鹿馬鹿しい。床や壁の到る所から一斉に、大量のシャワーが噴き出した。
「うっわあああああい♡ お水さんがぁ滝さんみたいにぃ、きれいきれいしてますですうぅぅぅ♡」
「喜んどる場合やないでえーーっ!」
「うわっちぃーーっ!」
千夏を除いて千秋や孝治以下全員、テーブルの下に避難の有様。突然の大災害から、我が身を守るしか他になし。
なにしろ酒場の中を、炎や水流や暴風が、ビュンビュンと飛び回る状況である。これでトバッチリでも喰らったら、大火傷{やけど}をするし凍傷にもなる。
ところがこのような修羅場的光景を、恐らく生まれて初めて拝見するのであろう。静香は魚町の巨体のうしろに隠れ(つまり防波堤代わり)ながらも、その瞳を輝かせていた。
「ここってすっごいおもしろいとこだんべぇ、未来亭ってぇ♡ あたしも進一さぁと結婚さしたらぁ、ここに住んじゃおうかなぁ〜〜っと♡」
「……えっ?」
魚町の仰天など、今さら書き記す必要もないだろう。 (C)2012 Tetsuo Matsumoto, All Rights Reserved. |